2004年8月、アテネ五輪を制し、表彰台の頂点に立った野口
暗闇に光り輝いたアテネのパナシナイコ競技場で左手を突き上げてゴールしてから12年。かつては練習で男子顔負けの月間1300キロも走り込んだ両足は、限界を超えていた。3月に名古屋ウィメンズを走り終え、引退を決めてからは一切走っていないという。
野口みずきが引退 37歳、アテネ五輪で金
1月の言葉が思い出される。「もうボロボロかな」
全盛期は151センチの体でつむじ風のごとく駆けた。でも、ここ数年は練習で100%の力が出せず、泣きながら走った。長距離ランナー特有の、足の感覚がなくなる「抜ける」という症状にも苦しんでいた。
もっときれいな終わり方があるのでは、との思いから、「走るのが好きだから?」と聞いた。返ってきたのは意外な答えだった。
「好きかって言われると……。高橋(尚子)さんが心から走るのが好きなのはわかるんです。でも、私は高橋さんのように楽しいとは言えない。大げさな言い方ですけど、命をかけてやってきましたから」
同じ金メダリストでも高橋さんとは対照的だった。2000年シドニー五輪でゴールした後、「すごく楽しい42キロでした」と笑ったピッチ走法の高橋さん。ストライド走法の野口はアテネで「すごくうれしいです」と泣いた。「さわやか」な高橋さんに対し、野口からにじみ出ていたのは「必死さ」だった。
頭角を現したころ、はねるような走りでは42・195キロは持たないと言われた。だから、女子長距離では珍しかった筋力トレーニングに耐えた。猛練習の証しのごとく、駆け引き無用でレースを引っ張った。今の若手が優勝ではなく、日本人1位争いに終始する姿勢を苦々しく思っていた。「私は日本人トップなんて狙おうと思わなかった」
友人に「足を替えてほしい」と漏らすほど、けがは深刻だった。でも、走り続けた。「(克服して)悩んでいる人に伝えたい」と思っていた。全盛期の走りができなくても伝えられるものがあると思っていた。
野口が高3の時、入社試験で言った言葉がある。「足が壊れるまで走り続けます」。それから19年。その言葉を実行した競技人生だった。(小田邦彦)