高知学芸高校の敷地内にある名碑。犠牲になった生徒3人の名前がない=高知市
慰霊碑に犠牲者の名前を刻むのか、刻まないのか。この問いは、他の大事故の遺族にも重くのしかかっている。
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■「真実にふたをしたまま」
納得するまで刻まない。
3月24日、高知市の高知学芸高校。正門そばの慰霊碑前で慰霊式が行われた。28年前のこの日、中国・上海で起きた列車事故で生徒と教諭計28人が犠牲になった。しかし、碑には生徒3人の名前がない。その一人、中田恵子さん(当時16)の母喜美子さん(68)は「なぜ名前がないのか、疑問に思い、事故に関心を持つ人が増えてほしい」という。
3人姉妹の真ん中だった恵子さん。毎日あったことを楽しそうに報告する明るい子だった。なぜ、中国で鉄道事故が相次いでいたのに十分な下見をせず、生徒らを連れていき、死なせたのか――。学校を加害者として損害賠償を求める裁判を起こした。
事故2年後の慰霊碑建立には「学校が反省し、報告書を出してから」と反対した。それから19年後に出た報告書は「学校に都合よく書かれていた」。真実を伝えたいと、日記や学校とのやりとりをまとめた本を3年前に出版。今年2月、他の遺族と報告書の書き直しを求めた。「真実にふたをしたまま、名前は刻めない。時間で解決されるものではなく、納得できるかどうかだ」
■「息子への礼儀」
葛藤の末、刻まれた。
4月8日、東京メトロ中目黒駅近くの慰霊碑。富久邦彦さん(69)は妻と手を合わせた。16年前、営団地下鉄日比谷線の脱線衝突事故で麻布高校に通う長男の信介さん(当時17)を失った。月命日にいつも足を運ぶ。慰霊碑そばのプレートには名前がある。事故1年の日に碑が建った時は、刻ませなかった。
通夜に営団職員が喪服ではなく平服で現れ、現場近くの祭壇では手向けられた花がバケツに……。営団には命の尊厳を尊ぶ姿勢が見られなかった。質問状で安全意識や責任を問うたが、納得できる回答もなかった。そもそも加害企業が建てる碑に抵抗があった。
事故から1年数カ月後、示談を機に刻むのを認めた。本当は刻みたくなかった。将来を奪われた息子がふびんだった。中学でサッカー部、高校ではラグビー部。ボクシングにも励み、高校では1人で部を立ち上げた。「一生懸命生きていた」
家では無口だったが、友人は多かった。友人たちが現場を訪れた時、名前がないのは――。「友人への礼儀、それは息子への礼儀でもある」と思い至った。