雲仙・普賢岳の大火砕流から25年を迎え、亡くなった人たちの慰霊碑前で献花する鐘ケ江管一元島原市長(右端)と市職員ら=3日午前7時59分、長崎県島原市、小宮路勝撮影
長崎県の雲仙・普賢岳で43人の死者・行方不明者が出た大火砕流から25年。ふもとの同県島原市の島原復興アリーナでは3日午前、市主催の犠牲者追悼式が行われた。市民らは災害の教訓を忘れないとの誓いを新たにし、熊本地震の被災地に向けて「災害からは必ず復興できる」と呼びかけた。
現在の島原、雲仙、南島原の3市にまたがる雲仙・普賢岳は1990年11月、198年ぶりに噴火活動を始め、91年6月3日午後4時過ぎに大火砕流が発生。取材をしていた報道関係者やタクシー運転手、地元消防団員らが犠牲になった。噴火活動は5年ほどで収まったが、14年9月の御嶽山(長野・岐阜県境)の噴火(死者・行方不明者63人)まで戦後最悪の火山災害だった。
市主催の追悼式は節目の年に行われ、開催は5年ぶり。式辞で古川隆三郎市長は、噴火でできた平成新山の山頂や斜面には今も1億7千万立方メートルの不安定な溶岩があるとして「崩落対策が今後の重要な課題」と述べた。熊本地震にも触れ、「災害からは必ず復興できるとの応援メッセージを発信し、支援につなげたい」と、災害を経験した島原からエールを送った。
大火砕流で消防団員の父を亡くし、自身も今は消防団員の島原市の会社員、井上康一さん(29)が遺族代表であいさつ。「大切な家族を失ったあの大惨事から25年」「あの日見た、家族が悲しむ姿は今でも心の中に残っている」と振り返り、「噴火災害の脅威を私たちの子どもの世代にも伝え、災害の歴史を風化させることのないよう努めたい」と語った。熊本地震の被災地にも思いを寄せ、「明日の見えない日々を過ごしていると考えると、胸の痛い思いであります」と話し、早期の復興を願った。
被災者が多く移り住んだ島原市の仁田(にた)団地にある公園の慰霊碑前ではこの日、市が献花台を設置。住民らが花を供えて手を合わせた。(真野啓太)