星子崇さんが投手となり、打撃練習をする熊本工OBら=2日、熊本市東区長嶺東
1996年の夏の甲子園決勝でサヨナラ負けを阻止し「奇跡のバックホーム」として知られる「松山商―熊本工」戦。そのメンバーが22日、熊本市の藤崎台県営野球場で試合をする。あれから20年。地震で大きな被害を受けた熊本を盛り上げようと、当時、甲子園を沸かせた選手たちが再び集まる。
奇跡のバックホームを動画で
96年8月21日の決勝。延長十回裏、1死満塁で熊本工の打者が右翼へ大飛球を放った。松山商の矢野勝嗣(まさつぐ)さん(38)がつかむ。三塁走者の星子崇(たかし)さん(38)がタッチアップでスタートを切り、サヨナラ勝ちと思われたが、タッチアウト。松山商は十一回表に勝ち越し、夏5度目の全国制覇を果たした。
高校卒業後、星子さんは大阪の社会人野球の名門チームに入ったが、けがもあって2年で退部し、会社も辞めた。「あの時の三塁ランナー」と言われるたびに、野球から気持ちが離れていった。
熊本に戻り、飲食業の道へ。2013年、知人を介して矢野さんの消息を知り、熊本市内で再会した。矢野さんは大学を卒業後、愛媛朝日テレビの社員になっていた。
矢野さんも悩んでいたと知った。会う人会う人に「あのバックホームの選手ですか」「すごいね」と言われ、ずっと息苦しさを感じていたという。
「あのプレー、おれたちに一生ついて回るよな」。2人は打ち解け、胸のつかえは徐々に取れていった。
「あの経験があったからこそ、今の自分がある」。そう思えるようになった星子さんは翌14年、高校野球ファンが集える居酒屋を熊本市に開いた。店名は「たっちあっぷ」。開き直りと誇りを込めて名付けた。「もうすぐ20年。またみんなで試合をして相まみえよう」。そんな話も始めた。
そうした中で、4月に熊本地震が起きた。夏の高校野球のメイン会場、藤崎台球場も損壊した。藤崎台は熊本の球児の「聖地」。星子さんが当時の熊本工の選手たちに復旧のための寄付を呼びかけると、松山商メンバーも協力してくれた。
当時、投手として優勝のマウンドに立った渡部真一郎さん(38)は「このことをきっかけに、松山商の方も、県内外にいるメンバーが十数年ぶりに顔を合わせた。みんなが『熊本のために何かできないか』と考え、20年前のように一丸になれた」と振り返る。
計約45万円集まり、県に託した。星子さんらは、再戦の舞台を、本格復旧の途上にある藤崎台に決めた。「今もあの試合を覚えていてくれる人たちに恩返しがしたい。みんなの元気になりたい」
当時の熊本工の監督、田中久幸さんは06年に59歳で亡くなったが、思いを継ぐ教え子たちはみな「やるからには本気で」と練習に励む。奇跡のバックホームにつながる右飛を放った本多大介さん(38)は「当時の場面が夢に出てくることもあった。あの悔しさは、もう一度試合をしないと晴らせない」。
選手交代で矢野さんを右翼に置いた当時の松山商の監督、沢田勝彦さん(59)=現・愛媛県立北条高校監督=は「あのバックホームは、それぞれの選手の人生に大きな影響を与えたはず。勝敗を超え、選手同士が今も強い絆で結ばれているのは、監督冥利(みょうり)に尽きます」と話す。再試合にも駆けつける予定だ。(板倉大地、枝松佑樹)
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〈奇跡のバックホーム〉 3対3で延長戦に入った甲子園決勝。十回裏、1死満塁で熊本工の打者が右翼へ大飛球を放ち、松山商の矢野勝嗣さんがつかんだ。三塁走者の星子崇さんがタッチアップし、サヨナラ勝ちと思われたが、ちょうど星子さんが駆け込んできたところに矢野さんの返球が届き、本塁寸前でタッチアウト。松山商は十一回表に勝ち越し、夏5度目の全国制覇を果たした。