1944年1月、日中戦線視察から羽田飛行場に帰着した三笠宮崇仁さま
昭和天皇の弟、三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日、亡くなられた。戦時中は軍人として戦争を体験し、戦後はオリエント史の研究者として知られた。「昭和」を体現する100歳の人生だった。ゆかりの人たちは「自由で純粋な方だった」と人柄をしのんだ。
特集:三笠宮さま逝去
三笠宮崇仁さま逝去 100歳、天皇陛下の叔父
「温和で、必ず周りの話をきいてから、自分の考えを話す方だった」。陸軍士官学校などを終えた三笠宮さまが、千葉県の習志野騎兵第15連隊の中隊長になったのは1938(昭和13)年、日中戦争が始まった翌年のこと。当時、同連隊に所属していた三井武男さん(99)=東京都八王子市=は三笠宮さまをこう振り返る。
一緒に当直勤務に就いた際は、休憩の時間に「ピンポンをやろう」と誘われ、三井さんが勝つと、売店からそばを取り寄せてくれたこともあった。
三笠宮さまはその後、中国・南京の支那派遣軍総司令部の参謀となる。一方で三井さんも部隊を移り、中国大陸へ。ソ連軍と衝突し、日本軍だけで1万8千人が犠牲となったノモンハン事件を経験した。近代的な戦車を備えたソ連側の猛攻を、騎馬部隊は周囲で見守る。三井さんは「聖戦と呼ばれたが、殺し合うことに何の意味があるのだろう」と感じた。
戦争の悲惨さや、中国大陸での日本軍の残虐行為について、三笠宮さまは戦後、率直に反省を語ったことで知られる。指導する側だった自身についても、「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえない」(「古代オリエント史と私」)と記した。
三井さんたち騎兵連隊の将校経験者らでつくる親睦会には、三笠宮さまも出席していた。その場で戦争や政治の話に触れることはなかったが、直筆で「和」という文字をしたためた色紙を会員に配ったことがあった。「和を尊び、平和な国にしたいという思いだったのでしょう。話をもっと聞きたかった」
27日、亡くなったことを知り「テレビで元気な姿を見ていた。とにかく残念としか言いようがない」と肩を落とした。
三笠宮さまは南京の総司令部時…