同僚と笑顔で雑談する筆者=昨年8月、東京都中央区築地の朝日新聞東京本社で、瀬戸口翼撮影
パソコンで「それでも」と打ってから、あれ、と思った。福島を離れて初めてコラムを書いたときのことだ。福島で働く以前は使っていなかった気がしていたが、福島以後の過去の記事を調べると、ぞろぞろ出てきた。
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やっぱり……。しばし感慨にふけった。この接続詞こそ私にとって福島の記憶なのだ、と。当時の日々がひとつの言葉に結晶して自分に刻まれていたのだと気づいた。
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私が一線の記者の原稿を直し、最終的に出稿するデスクとして福島総局で働いた2年弱。原発事故で日常生活を損なわれながらも、困難に立ち向かう人々の物語を書いてきたある記者が、原稿でよく使っていた接続詞が「それでも」だった。
東京電力福島第一原発の周辺に出ていた避難指示がぽつぽつと解除されだした時期だ。だが人々は健康への不安や様々な事情から、誰もがすぐふるさとに帰れるわけではない。その間にも、県外で事故の風化が進んだと指摘された。
総局にはまっすぐな記者が集まっていた。踊りに使う太鼓や衣装を津波で流されながらも「祭りは町そのもの。原発のためにやめられっか」と民俗芸能を復活させた住民の話。あるいは、生徒の心を傷つけるかもと心配しつつ、震災体験を授業で取り上げることにした学校関係者のこと――。
前段と後段をつなぐ役割で、「それでも」がしばしば出てきた。同じ接続詞でも、「だが」や「しかし」とは違う。鼓舞するような、気分がクッと上向くようなニュアンスがこもっていた。
下手をすると文章が一本調子になるおそれがあるが、ほとんどは削らずに残した。立ち上がろうとする取材相手を応援したいという筆者の気持ちが、文章から伝わってくるからだ。いつしか自分の気持ちもそれに重なり、言葉そのものが定着していった。
たとえば、若手が書いてきた原稿にメリハリが欠けていると感じたときがあった。「それでも」とやったうえで構成を手直しすると、とたんに文章に人の血が通い、背骨が通った気がした。