リリーフカーの発祥は、バイクだった
■スポーツ好奇心
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で行われるプロ野球の試合では、投手が交代するとき、救援投手は高価な車に乗って出てくる。これは、いつから始まったのだろうか。調べてみると、中継ぎ、抑えといった救援陣が注目され、大事な役割を担うようになった歴史が見えてきた。
特集:スポーツ好奇心
一、三塁側ともに、外野席とアルプス席の間にある通路に、リリーフカーは止められている。甲子園での開幕戦だった7日、阪神の投手交代が発表されると、右翼ポール際のフェンスが開いた。救援投手の登場だ。
球団の公式チアリーディングチーム「Tigers Girls」のメンバーが運転する車が出てきた。外野の芝生を通行し、一、二塁間付近で止まった。助手席に乗っていた投手が降りると、右回りで右中間を走り、通路に背を向けて停車。バックで器用に引き揚げていった。
今では見慣れた光景。だが、リリーフカーの起源は「バイク」だった。
1964年から始まったとされる。当時の朝日新聞(大阪本社発行)は、「今年からプレーの進行を早くするため、投手交代のとき、スクーターを利用することになった」と伝えている。このとき、甲子園には外野フェンスの前に「ラッキー・ゾーン」があり、中はブルペンだった。「何しろいままでは、投手交代といったら広い球場のスミからマウンドまでノコノコ歩いてきていたため試合は中断され、せっかく盛上がった興味を半減していたが、この新兵器でスピード・アップしたわけ」(記事引用)だそうだ。
70~80年代、阪神の抑え投手として活躍した山本和行さん(67)は「バイクの色は、確か黄色だった」と記憶している。その後、「カートのような車になった。最初は係員のような人が運転していたが、いつしか女性になった」という。
91年シーズン限りでラッキーゾーンが撤去され、一時はリリーフカーも使われなくなった。救援投手は、ベンチ脇にあるブルペンで準備していたからだ。しかし99年、室内練習場を使うようになると、リリーフカーも復活。車はダイハツ工業から提供されていたが、現在はメルセデス・ベンツのものが使われている。
リリーフカーの歴史は、救援陣…