建造から70年。第五福竜丸は当時の面影を残して展示されている=東京都江東区の都立第五福竜丸展示館
ビキニ環礁での米国の水爆実験で被曝(ひばく)した静岡県焼津市のマグロはえ縄漁船・第五福竜丸。除染後に大学の練習船として再出発したが、改装に携わったのは三重県伊勢市の造船所だった。船の建造から70年になるのを機に、当時の技術者らが10日、伊勢市で講演会を開くほか、7月には東京都立第五福竜丸展示館を訪れる。
特集:核といのちを考える
第五福竜丸は1954年に被曝した後、国が買い上げ、東京水産大(現東京海洋大)の練習船として使うことになった。56年に改装を担ったのが、伊勢市の強力造船所(現ゴーリキ)だった。
「ある日突然、船が現れた。船名も布で隠され、まるで幽霊船のようだった」
当時働いていた吉岡雄毅さん(82)は振り返る。
改装は造船所の創業者・強力善次氏(故人)が受注した。放射線検査で安全性は確認されていたが、周囲の反発は強かった。会社の壁に「焼津港に帰れ」というビラを貼られたり、従業員が銭湯の入浴を断られたりした。
しかし、従業員はめげなかった。当時、設計を担当した木村九一さん(85)は「きれいに直したろやないか」という善次氏の言葉を覚えている。甲板の船長室や無線室などは鉄製に造り替えた。天井と側面にはヒノキ、ベッドはケヤキと、当時としては高価な木材を使った。トイレも新たに取り付け、船体も白に塗り替えた。
木村さんは「強力造船所は木造…