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山を越えていれば姉に…原発投下の日、88歳に残る悔い

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2017-7-12 7:04:06  点击:  切换到繁體中文

 

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1943年ごろに撮影された、きょうだいとの写真。後列の右端が深堀好敏さん、左端が原爆で亡くなった姉・千鶴子さん


■ナガサキノート


あの日、深堀好敏さん(88)は16歳だった。目に映ったのは変わり果てた街と多くの死。あれから72年。今年の8月9日、長崎市の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる。記者が当時の体験を聴き、深堀さんが歩んだ道のりをたどった。


3Dで再現、あの日の足どり


深堀さんは、現在の高校1年生にあたる長崎工業学校(現・長崎工業高)4年生だった。学生も工場などに動員されており、長崎市中心部近くの長崎県の事務所で働いていた。


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姉の遺体を見つけた場所付近を訪れた深堀好敏さん=長崎市坂本2丁目



午前11時2分、白い光を感じた。爆心地から3・6キロの距離だった。


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深堀好敏さんが被爆当時にいた場所付近。爆心地方向(奥)との間にある山をめざして歩いた



爆心地との間には山がある。8月9日夕、深堀さんが事務所を出発して向かったのが、その山だ。山の向こう側の浦上地区に、姉と身を寄せていた親戚の家があった。姉のことが心配だった。


中腹にたどり着くと、多くのけが人が山を越えて逃げてきた。「『水、水』ってしがみついてくるとさ。みんな灰をかぶって」。


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深堀さんが登った山の中腹



深堀さんはそこで「山の向こう側は、一面火の海ですよ」と聞いた。やがて、日が暮れて暗くなった。「怖くなった」。深堀さんは引き返した。


深堀さんの足取りをたどって30分ほど坂や階段を上り続け、中腹に着いた。72年前、山の反対側からやけどやけがを負った多くの人がここにたどり着いたという。どれほどの惨状だったのだろうか。


深堀さんは、夜が明けてから再び親戚の家をめざした。今度は山越えではなく、路面電車の線路沿いに浦上をめざした。


長崎駅まで来た時だった。浦上方面への視界が開けた。そこにあったはずの家々は、消えていた。8月9日朝、電車で動員先に向かった時にはあったのに。「その時、どうかなった。別の世界に迷いこんだような」


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焼失した路面電車=松本栄一撮影



深堀さんの歩いた道に沿って長崎駅から北に向かうと浦上地区に入る。多くの犠牲者が出た兵器工場の跡は今、大型商業施設になり、屋上に観覧車が回る。


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多くの犠牲者が出た工場跡の一つは現在、商業施設になっている=長崎市



当時の惨状を今も伝えるのが、片方の柱だけが残る山王神社の一本柱鳥居。神社には、福山雅治さんが歌にしたことでも知られる被爆クスノキがある。大きな木陰は人々の憩いの場だ。修学旅行生たちが訪れていた。


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青々と葉がしげる山王神社の被爆クスノキ



同じくらいの年齢だった深堀さんも72年前、ここを歩いた。


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被爆後も残った山王神社の一の鳥居(後に消失)=松本栄一撮影



姉がいるはずの親戚の家は、神社のすぐわきの谷間にあった。深堀さんがたどり着くと、姉は崩れた家のはりを右手で抱きかかえるようにして息絶えていた。「何もすることはできん」。布団をかぶせてあげて、その場を立ち去った。後日、深堀さんは姉の遺体を自らの手で焼いた。


浦上地区は一帯が焼けたが、その谷間だけは焼けていなかった。姉がはい出そうとしていたあともあった。もし、9日のうちに山を越えていれば、まだ生きている姉に会えたかも――。「一人寂しく死なせた」。深堀さんの心には悔いが残っている。


深堀さんは変わり果てた浦上を歩き続けた。カトリック信者として礼拝に通った浦上天主堂は青く燃え、世界の終わりを感じた。


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崩れ落ちた浦上天主堂=松本栄一撮影



長崎刑務所浦上刑務支所そばの川は、びっしりと遺体で埋まっていた。深堀さんは遺体を乗り越え、川を渡った。親戚の家を通ると、骨が散らばっていた。


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浦上天主堂方面から長崎医科大(現・長崎大医学部)のグラウンド方向を撮影した写真=松本栄一撮影



現在のその川を訪れると、チョウが飛び、魚が泳いでいた。ちょうど午前11時2分にさしかかった。毎日、この時間に平和公園から流れる「原爆を許すまじ」の歌のメロディーが響き渡った。


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遺体で埋まっていたという平和公園脇の小川=長崎市



深堀さんは郊外の山あいに疎開しているはずの両親の元をめざした。両親があてにしていた親戚の家にはおらず、行き先を人に尋ねながら、山をさらに登って、ようやく再会を果たした。原爆が落とされてから飲まず喰わずだったが、道の途中にわき水の出る場所があり、そこで初めて水を飲んだ。「おいしいこと、おいしいこと」。そう振り返った。


深堀さんの道をたどるなか、当初は同じように水を飲まないで歩こうとしたが、1時間ほどで断念した。被爆当時に多くの人が履いていたという地下足袋で歩いたためか、足の裏がひりひりと痛み、疲れでよれよれになった。深堀さんは、16歳の心と体にどれだけのものを抱えて歩いたのか。


深堀さんは当時を振り返って語る。「精神的にも疲れて、そりゃあもう、元気があるわけない。あとは精神力だけ。普通の状態では、そんなことありうるのかという世界」


深堀さんの歩いた2日分の道を歩き終えると、出発から5時間半ほどたち、歩数計は3万2千歩になった。


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被爆当時は刑務所だった平和公園には多くの観光客が訪れる



72年前の体験は深堀さんの原点になっている。被爆体験の語り部となり、原爆写真の収集・調査の第一人者として、米国にも何度も足を運んだ。「亡くなった人たちには無念の思いがあると思う。『死んでいる人のために伝えてよ』と言われている気がしてね」。その使命感を胸に、被爆72年の夏に臨む。(岡田将平)


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被爆後に歩いた足取りなどについて語った深堀好敏さん=長崎市




1945年8月9日、長崎に原爆が投下されました。朝日新聞長崎版では、被爆者らの証言を「ナガサキノート」と題して連日伝えています。


3千回を超えた連載で証言を伝えた280人以上のうち、8月9、10日に爆心地数キロ内にいた約150人を抽出し、証言から推測される足取りを3Dの地図上にアニメーションで再現しました。デジタル版「ナガサキノート」(http://www.asahi.com/special/nagasakinote/)では、場所ごとの被爆の実相を、一人ひとりの行動と証言から確かめることができます。




 

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