復帰40年記念式典であいさつする上原康助さん。後方左は野田佳彦首相、右は仲井真弘多・沖縄県知事(いずれも当時)=2012年5月15日、沖縄県宜野湾市
沖縄県選出の国会議員で初の閣僚になった上原康助(うえはら・こうすけ)さんが6日、呼吸不全のため死去した。84歳だった。通夜は7日夕、告別式は10日午後2時から沖縄市松本7の5の3のサンレー中部紫雲閣で。喪主は妻美津子さん。
米軍基地従業員による沖縄最大の労働組合「全沖縄軍労働組合(全軍労)」の委員長として本土復帰運動を推進。70年に衆院議員に初当選し、10期務めた。
32年、沖縄県本部(もとぶ)町生まれ。沖縄戦を体験し、戦後は米軍基地の従業員となった。61年に全沖縄軍労働組合連合会(後の全軍労、現在の全駐労沖縄地区本部)を結成、28歳で初代委員長に就任した。
雇用環境が不安定だった軍雇用員らの待遇改善を求めて米軍と渡り合った。62年には日本への「祖国復帰」をスローガンに掲げ、沖縄教職員会の屋良朝苗会長(後に復帰後初の沖縄県知事)らとともに復帰運動の中核を担った。
本土復帰を前に行われた70年11月の「沖縄国政参加選挙」に社会党公認で立候補し、38歳で初当選。国会での代表質問で「沖縄戦で悲惨な犠牲者となった沖縄県民に一言の相談もなしに米軍支配を許した自民党政府の政治姿勢を追及したい」と演説した。93年の細川内閣で国土庁、沖縄開発庁、北海道開発庁の長官に就任。社会党副委員長、社民党副党首を歴任した。
米軍普天間飛行場の県内移設には反対しつつ、日米安保体制を認めた上で沖縄の基地を半分に減らす「ハーフオプション」といった柔軟路線を打ち出し、当時の大田昌秀知事を支えた反基地勢力と対立するようになった。98年6月に社民党を離党し、民主党へ移ったが、00年6月の総選挙で落選、政界を引退した。02年に勲一等旭日大綬章を受章。03年に県功労者表彰を受けた。
上原さんとともに復帰前後の軍…