徳川家康が生まれ、幼少期と青年時代を過ごした岡崎城=愛知県岡崎市康生町
愛知県岡崎市には「江戸のふるさと岡崎」というフレーズがある。岡崎生まれの徳川家康が関東に移り、江戸幕府を開いたからだ。実は、岡崎は家康以外にも江戸(東京)とのつながりがある。(大野晴香)
家康家臣の三河武士たち
約260年続いた江戸幕府を開いた家康は1542(天文11)年、岡崎城で生まれた。幼少期と、桶狭間の戦いをきっかけに今川家の人質から解放された後の10代後半から20代の青年時代を、ここで過ごした。その後、浜松や駿府に居城を移したが、三河(愛知県)を治め続けた。
90(天正18)年に関東に移ると、江戸の街づくりに力を入れた。新宿、半蔵門、青山――。東京23区に今も残る地名や呼称が、岡崎と深い関わりがある。
桜の名所で知られ、首相主催の「桜を見る会」が開かれる新宿御苑。所在地の住所は東京都新宿区内藤町だ。「内藤」という地名が戦国時代、岡崎に住んでいた内藤清成という三河武士に由来している。
家康は関東に移る際、三河から家臣たちを連れて行った。その1人の清成は、家康に仕え、岡崎では岡崎城のすぐ北側の大林寺(岡崎市魚町)の近くに屋敷を構えていたとされる。
清成を巡っては、今も「駿馬(しゅんめ)伝説」が残る。江戸を本拠地にした家康は、清成が馬で駆けた範囲を領地で与えたとされ、広さは新宿一帯の20万坪に及んだという。この領地には甲州街道ができた。新たな宿場町が作られ、「内藤新宿」と呼ばれるように。その町が、今の新宿の始まりだ。
後の皇居となる江戸城の西側に置かれた「半蔵門」。甲州街道(現・国道20号)につながっており、有事の際には将軍を甲州(山梨県)へ逃がすことを想定した。ここで将軍の安全を守る役割を担ったのが服部半蔵正成だ。
正成は82(天正10)年の本能寺の変の際、堺にいた家康が伊賀(三重県)を通って三河に逃げた「伊賀越え」で護衛を務め、地元の伊賀者と交渉し助けを得た。正成も岡崎の生まれとされ、岡崎城がある今の岡崎市康生町のあたりに屋敷を構えていたとされる。
意外性「興味持って」
家康とともに関東に入った岡崎出身の三河武士をもう1人。青山忠成という人物がいた。岡崎市北部の百々(どうど)という地域の出身で、家康が幼少の頃から小姓として仕えた。関東では町奉行だった。与えられた屋敷地は現在の原宿、赤坂、渋谷のあたりまであったといい、高級ブランド店やブティックが並ぶ青山の地名の由来になっている。
青山家が岡崎にあった名残があると、おかざき塾歴史教室主宰の市橋章男さん(63)が史跡に案内してくれた。
同市百々町。七所神社のほか、民家が並ぶ住宅街だ。その一角の丘に、亀の甲羅に大きな墓石を乗せたような形をした碑が建っていた。「青山府君碑」と刻まれている。ここには青山家が守っていた百々城があった。「主君がその土地を離れると、家臣たちは親族も含め、皆がその土地を出てついていくのがルールでした」
岡崎商工会議所などは2004年から、「江戸のふるさと岡崎」のキャッチフレーズで、岡崎市をPRしている。大都会・東京の土台を、岡崎ゆかりの武士たちが築いたという自負が、市民にはある。「こうした意外性で、もっと岡崎や三河武士に興味を持ってほしいですね」と、市橋さんは話す。