開会式当日もコースに出て練習をした新田佳浩=加藤諒撮影
1998年長野パラリンピックに17歳で初出場したスキー距離の新田佳浩(日立ソリューションズ)は、37歳になって平昌大会を迎えた。
成田童夢に引退決意させた弟 パラスノボ・緑夢が平昌へ
特集:平昌パラリンピック
日本選手最多の6大会連続出場となる「レジェンド」にとって、大会の意味合いは過去5大会とは違う。誰かのためではなく自分のため。「僕がどこまでできるのか、競技者として追求したい」。自身の限界に挑む。
2年前、所属先の機関誌の企画で「何のために滑るのか」と問われた。答えに詰まった。「やらなくても死ぬわけじゃない。家族との時間は減るし、体力的にもきつい」。それなのに、続けたいという強い思いだけがあった。
岡山県出身。3歳のころ、祖父の達(とおる)さんが運転するコンバインに左腕を巻き込まれ、切断された。4歳からスキーを始め、中学まで参加したのは健常者の大会だった。高校受験を機に競技をやめるつもりだったが、長野大会を前に選手発掘を進めていた荒井秀樹・現日本代表監督にスカウトされた。パラリンピックの世界に足を踏み入れた。
当時、明確な目標があった。達さんに金メダルをかけて「障害のことは気にしないでいいと言ってあげたかった」。10年バンクーバー大会で2種目で優勝。12年に達さんが94歳で他界する前に、活躍する姿を見せることができた。
一度は引退を考えたが、次は妻と2人の息子のために続けた。14年ソチ大会では「自慢の父親になりたい」が目標だった。4種目に出場して最高順位が4位で終え、完全燃焼したつもりだった。
それからは「漫然と続けていた」。何が自分をかき立てるのか問い直した。行き着いたのは、一度は世界の頂点に立ったアスリートとしてのプライドだ。「この年齢でどこまでパフォーマンスを上げられるのか。それが本当のモチベーションだった」。平昌では「金メダルを再び取りにいく」と誓う。
コーチとは遠征全てをともにし、年間230日を一緒に過ごす。自分だけではなく、コーチの家族まで犠牲にしているとも思う。「その分、自分は強くならないといけない」(菅沼遼)