興福寺の境内図
奈良・興福寺の旧金堂(現在の仮講堂)に長く安置されてきた四天王像について、国重要文化財から国宝への格上げが決まった。鎌倉時代の天才仏師・運慶(?~1223)の父、康慶(こうけい、生没年不詳)が腕を振るった傑作とされるが、なぜ今まで国宝に指定されなかったのか。その謎に迫った。
この四天王像は木造で、高さ1・98~2・04メートル。興福寺南円堂の本尊・不空羂索観音坐像(ふくうけんさくかんのんざぞう、高さ3・36メートル)、法相宗(ほっそうしゅう)の高僧6人を表現した法相六祖像(高さ73・3~84・8センチ)と同様、鎌倉時代の1189(文治5)年に康慶がつくった。
だが、安置場所は四天王像が旧金堂、六祖像が国宝館(旧食堂)とばらばら。しかも、観音像と六祖像は国宝に指定されたが、四天王像は重文のままだった。
その背景には、興福寺の歴史が大きくかかわっている。興福寺は奈良時代の710年の創建以来、境内のほぼ全域を焼損するような火事や戦災に計7回見舞われている。最も被害が大きかったとみられるのが源平の争乱の平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き打ち(1180年)。その復興の際に康慶や運慶が活躍し、康慶は大きな四天王像などを手がけた。
だが、江戸時代の1717(享…