生卵やゼリーなど、写真と見まがうような、光と潤いに満ちた絵画で知られる画家の上田薫さんは、1970年代に現在の画風を確立し、いま90歳だ。日本のスーパーリアリズムを代表する作家として評価され、全国各地の美術館に作品が所蔵されている。デザイン会社の社長や茨城大学の教授も務めてきた。2018年には、求龍堂から『上田薫画集』も刊行。上田さんのアトリエを訪ね、絵画への考えなどを聞いた。
◇
――長年、写真と見まがうような絵画を手がけていますが、きっかけのようなものはありますか?
「直接的なきっかけということではありませんが、幼稚園のころ、海軍の士官だった大おじから、外国の絵本をもらったんですね。その挿絵の子犬とか子猫が、もう手でなでてやりたいような質感で描かれていたんですね。毛を一本一本描いて。日本の絵本とは、立体感や質感が全く違う。大ショックで、感動しました。そういうことが潜在意識にはあったと思いますね」
――じゃあ、子どもの頃から絵描きになりたかった?
「絵描きなんてとんでもないですよ。うちは軍人の家系で、絵を描いているとおやじに怒られたんですから。大学も最初は医学部を受けて失敗して。そのころ、(美術史家の)富永惣一先生と出会ったのが、大きなきっかけになった。「君は絵を描いたら」っていわれて、東京芸術大に進みました」
――1954年に芸大を出た後は、抽象的な絵を手がけておられたようですね。
「スーラージュやアルトゥングに影響を受けていて、書のような強い黒い線が好きでしたね」
――56年には、MGM映画のポスター国際コンクールでグランプリをとられました。
「新聞に載った小さな記事で賞金額を知って応募したら、グランプリになってしまった。そうしたらデザインの仕事がどんどんやってきて、いきなりデザイン事務所の社長になってしまった。絵なんて描いちゃいられない。日立製作所なんかは、創立50周年のプロモーションのデザインを全部やってくれないかというので、これは面白いなと。日立の海から日が昇るところとか、全国の工場とかに、カメラマンと出かけました。それで写真を撮ることが身近になりました」
「もともとデザインが好きなわけでもないし、僕がやるのは、プレゼンテーション用のイラストとかで、あとは所員に任せていました。事務所は10年ぐらいやって社員に譲って一人になりました」
――その後、現在のような画風に?
「いやあ、リアルな絵なんてクソミソに言われましたよ。ただ、抽象画をやっていて行き詰まることがあって、そういうときに、こういうクソリアリズムの絵を描くんですよ。そうすると頭の中が空っぽになるでしょ。見た通りに描けばいいんだから。それで最初に、ちゃんと背景のある貝殻の絵を描きました。でも、貝が描きたいのなら、重力に支配された貝じゃなくて、貝だけを描けばいい。それから、ずーっと今の形になった。写真の撮り方も、デザインの仕事のときに覚えちゃったし」
――それから、ずっとリアルな絵を描き続けておられますね。
「本当はリアルじゃないですよ。抽象絵画です。生卵が割れて、中から黄身や白身が落ちている瞬間を描いたシリーズがありますが、そんな瞬間誰にも見えない。しかも、撮影のときは、100個も200個も割って、白身に、窓枠とかいろんなものが映り込むようにしています。シャボン玉やゼリーなどでも同じです。写真を撮るときから作っていて、リアリズムとはすごい違うんですよ。まあ、抽象画でもリアリズムでも、描くときにはどっちでもいいんですが。絵空事っていう言葉がある通り、絵は人間の錯覚を利用したいかさまなんですよ」
――どんな描き方をされているんですか。
「プロジェクターで写真を紙やキャンバスに投影して輪郭を取ります。色は写真を見ながら、です」
――ゼリーやシャボン玉など、透明なものを描くのは難しいと思いますが。
「簡単ですよ。透明というのは、向こう側が見えているということでしょ。だったら、向こう側を描けばいいじゃない。ゼリーとか、手前の透明なものにいろんな形があるから、向こう側のものがゆがむ。そのためにも写真を撮るときに、色んなものが映り込むように工夫する。あとはその通りに描くだけだから、技術なんてあるわけないでしょ」
朝日新聞の文化・文芸面の連載「感・情・振・動―ココロの行方」に挿絵を提供した上田さん。インタビュー後半は絵の「時間」についても語っています。
――今回の連載では、シャボン…