您现在的位置: 贯通日本 >> 资讯 >> 社会(日语) >> 正文
子どもたちが受け止めた沖縄戦 「平和の詩」でたどる



沖縄本島に上陸するため、海岸に押し寄せた米艦隊=1945年4月3日、米軍撮影、沖縄県公文書館所蔵



[PR]


沖縄戦などの戦没者を追悼する6月23日の「慰霊の日」。この日の追悼式典で子どもたちが朗読する「平和の詩」が、年々注目されています。子どもたちは沖縄戦をどのように受け止め、言葉に表してきたのでしょうか。そして沖縄戦の実相とは。過去の詩とともにたどっていきます。


本土との溝、基地問題の行方は…沖縄はいま


悲惨な戦場「鉄の暴風」




砲撃と銃撃でぼろぼろになった首里教会の会堂塔屋=米軍撮影、沖縄県公文書館所蔵



太陽の日差しは


黒く淀(よど)んで


島風は


爆風へと変わっていった


碧(あお)い空と海には


多種多様の鉄の玉が飛び交い


赤茶色に染まっていった


(2004年、首里高3年、金城実倫さん「戦争をしないと決めたこの国で」から)


太平洋戦争末期の1945年3月、沖縄・慶良間諸島に米軍が上陸して、激しい地上戦が始まりました。米軍の戦力は、後方支援も加えれば55万人。対する日本軍は10万人。しかも住民を「防衛隊員」などとして急きょ集めたり、10代の生徒たちによる「学徒隊」を動員したりして補っているのが実態でした。


米軍は4月1日に沖縄本島中西部に上陸。日本軍は首里城(現在の那覇市)に司令部を置いて抵抗しましたが、戦力差は圧倒的で、5月下旬にはほぼ壊滅します。




米軍の激しい砲爆撃でできた無数のクレーター。首里付近とみられる=1945年、米軍撮影、沖縄県公文書館所蔵



しかし日本軍は沖縄を、本土決戦に備える時間を少しでも稼ぐ戦場と位置付けていたため、降伏しませんでした。司令部は沖縄本島南部の糸満市摩文仁へ撤退し、戦い続ける道を選びます。


多くの住民が逃げていた南部一帯は、軍民が入り乱れた悲惨な戦場となりました。のちに「鉄の暴風」と呼ばれる激しい砲爆撃にさらされ、多くの人々が命を落としました。


沖縄戦での死者は推計で約20…


新闻录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

发表评论】【加入收藏】【告诉好友】【打印此文】【关闭窗口

相关文章

沖縄の米軍関係者、無許可タクシー営業か ネットで集客
平和の詩「永遠に」の思い、より強く 子を守る母として
沖縄慰霊の日、陸自隊員らが献花 旧軍司令官ら悼む碑
「平和の礎」に遺族ら献花、戦没者悼む 沖縄慰霊の日
記憶にない母の名、刻まれた 指でなぞった「平和の礎」
覚えていない母の名、礎に刻まれた 孫に託す「証し」
平和の詩、身近なことを手がかりに 戦争「昔話でない」
沖縄への「アメとムチ」 恋愛歌っている場合じゃない
平和の詩「沖縄戦、終わったのか」 銃ある通学路の記憶
玉城知事、辺野古工事の即時中止要求 岩屋防衛相と会談
辺野古問題、発端は米兵による少女暴行事件 動画で解説
「美ら海守るぞ」平和行進スタート 辺野古移設阻止訴え
1935年の沖縄のカラー化「面白い」 京都でも開幕
1935年の沖縄、カラー化でよみがえる 京都で写真展
二千円札の首里城 「日本3大がっかり名所」返上の歴史
在沖海兵隊「太平洋の玄関口にあり重要」 司令官に聞く
いまの沖縄、あの頃と重なる 戦争経験した90歳
県民投票で経団連会長、辺野古移設は「反対がはっきり」
沖縄県民投票でハンストの27歳「上の世代にもう辟易」
【動画】沖縄を語り合う せやろがいおじさん×南野森
沖縄知事の申し出を却下 係争委「審査対象当たらない」
「沖縄負担軽減」効果は? オスプレイ4日から本土訓練
藤井誠二さん「岡留さん、沖縄を最後まで気にかけて…」
沖縄県民投票、全41市町村で実施へ 3択に修正で
沖縄県民投票、全41市町村で実施へ 3択に修正で