かつて大海原に船で乗り出し、アジアをつなぐ交易で栄えた琉球王国。その宮殿であり、戦火によって焼失していた首里城が1992(平成4)年、那覇市に復元された。日本の政治体制に組み込まれた近代以降、忘れられていた琉球王国の歴史に、再び光が当たることになった。
「よく今まで耐えてくれた。苦労をかけたなあ」
琉球大学名誉教授(琉球史)の高良倉吉さん(71)は、那覇市の丘に建つ朱塗りの守礼門にそう声をかけ、乾杯した夜をよく覚えている。92年秋、首里城正殿などが3年がかりで復元され、一般公開を目前に控えていた時のことだ。
明治新政府による「琉球処分」まで、首里城は450年間にわたり琉球王国の政治と文化の中心だった。しかし、第2次世界大戦の沖縄戦で焼失。58年に守礼門は復元されたが、その奥に本来あるはずの城はなく、「日本3大がっかり名所」に数えられたこともあったという。
そんな不名誉な呼び名も、今は昔。正殿などが復元、整備された首里城公園は、年間200万人以上が訪れる沖縄観光の目玉ともなっている。
歴史考証を担当した高良さんは「明治以来の本土への同化志向もあって、琉球王国の文物は散逸。史跡や風景も、沖縄戦で破壊されてしまっていた」と指摘し、平成の首里城復元は「沖縄の我々にとって、アイデンティティーを取り戻すプロジェクトでもあった」と話す。
高良さんが琉球王国の歴史を探究するようになったきっかけの一つは、沖縄の本土復帰(72年)から数年後のこと。講師を務めた短大で、学生が「沖縄の歴史はいじめられた話ばかり」と感想を漏らした。「沖縄戦も米軍基地も向き合うべき問題だが、それが沖縄の歴史の全てではない。戦火からも立ち上がることができた基盤にある歴史を再発見しなければと考えた」
以来、アジアの海を駆け巡る中継貿易で栄えた琉球王国の研究をリードするかたわら、地元経済団体に招かれて講演を重ね、初めて琉球王国を主題にしたNHK大河ドラマ「琉球の風」(93年)の監修も務めるなど「歴史再評価のプロデューサー」として活動してきた。
沖縄県立高校の地理歴史科教諭だった新城俊昭さん(68)は、高良さんら研究者たちが次々と掘り起こす琉球王国の歴史に刺激を受けた一人。「歴史は、県民の共有財産にしなければ。そのためには、やはり学校教育が大事だと思った」
そこで94年、最新の研究を取り入れた通史の副読本『琉球・沖縄史』を自費出版。日本史の授業のほか、学習指導要領の改訂で、学校が科目として設定できるようになった郷土史などの授業で使われるようになった。
沖縄初の芥川賞作家で、『小説 琉球処分』を書いた大城立裕さん(93)は「子どものころは沖縄の歴史など、まったく習わなかった」と、本土への同化政策の色濃い教育を受けたことを振り返る。一方、現在の沖縄の人びとが「『万国津梁(ばんこくしんりょう)』(万国の架け橋)といった琉球王国の理念を知り、自分たちの歴史を再評価するようになった」と意識の変化を指摘する。
2000年には、九州・沖縄サミットに合わせ、表に守礼門が描かれた2千円札が発行、首脳たちの夕食会が首里城で開催された。さらに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録。今では首里城をまねた外観の土産物店が繁華街に建つなど、琉球王国のイメージは広く浸透している。
高校教諭を退職し、沖縄大学客…