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東海大山形を支える「ねぎ坊主」 OB料理人は月木土に

6月のある月曜日の夕暮れ。山形市青田5丁目の中華料理店「ねぎ坊主」の店内は、丸刈りにポロシャツ姿の高校生でにぎわっていた。


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東海大山形高校の硬式野球部の選手たちだ。30人ほどが座敷席のテーブルを囲み、特製あんのたっぷりかかった中華麺や、香ばしく焼き上がったこぶし大の鶏の照り焼きにかぶりつく。30分足らずで平らげると、選手たちは続々と食器をカウンターに運ぶ。


「体大きくなったんじゃない?」「テスト期間は勉強もしっかりね」


カウンターの向こうから声をかけるのは、同校野球部OBで店主の鎌田耕司さん(50)。後輩たちと言葉を交わすのが、月曜のささやかな楽しみだ。


東海大山形の部員は約60人。うち半数ほどは親元を離れて寮や下宿で暮らす。


鎌田さんはOBとして毎年、夏の大会が近づくと唐揚げを差し入れていた。2年ほど前からは週3回、寮暮らしの選手たちに夕食を作ることに。選手らが店に来るのは月曜で、木曜と土曜は寮に料理を届ける。


茨城県から進学し、寮生活を始めたばかりの小田嶋悠斗選手(1年)は「色々と不安だけど、店に来るとちょっと安心します」。



鎌田さんが在籍した頃、同校野球部は全盛期だった。夏の大会を3連覇し、67~69回大会と甲子園に3年連続で出場した。


二塁手だった鎌田さんは日々の厳しい練習を耐え抜いたが、3年間でベンチ入りは果たせなかった。


悔しさを抱えつつ、卒業後は料理人を目指した。東京や九州で10年余り修行した。東京では、川端康成や三島由紀夫ら文豪が通ったことで知られる御茶ノ水の「山の上ホテル」の中華料理店でも働いた。1998年、地元に戻り、念願だった自分の店を開いた。


「今思えば、厳しい下積み時代を耐え抜くことができたのは、高校野球の3年間があったからだと思う」



「みんなが言うことを聞いてくれない」


グラウンドそばに昨夏、新築された寮「夢進館」で初代寮長を務める伊藤慧瑠(える)選手(3年)は、鎌田さんにこう漏らした。


あいさつや整理整頓を呼びかけても、なかなか浸透しないという。鎌田さんは「上級生は口で指示しがちだが、まずは自分が行動で示してみては」とアドバイスした。


伊藤選手は今、「自分が模範的な寮生になろう」と心がけている。公式戦ではなかなか出番が訪れないが「寮長だって大事な役割。後輩のためにも、ちゃんとした土台を作りたい」と考えるようになった。


親元を離れ、厳しい練習やチーム内の競争に明け暮れる選手たち。鎌田さんは「まずは3年間野球をやりきって」と背中を押す。


「卒業したときに手元に残るのが手応えでも悔しさでも、きっと将来の糧になる」。鎌田さん自身もそれを経験したからだ。


春夏合わせて甲子園出場9回を誇る母校は、ここ15年ほど聖地から遠ざかっている。いつか、後輩たちが泊まる大阪のホテルに、特大の唐揚げを差し入れるのが鎌田さんの夢だ。今年も後輩たちの熱い夏が始まる。「毎年この時期はそわそわして仕方ない。店を休んで全試合の応援に行けたらいいのになあ」(西田理人)


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