新型コロナウイルスが感染拡大している中、中国の都市商業の復興をどのように加速させたらよいだろうか。日本・東京の原宿・表参道エリアの「個性的な店舗とコミュニティの共同建設」が進む多様な商業エリアの発展状況は、都市商業の復興に有益なヒントを与えてくれるかもしれない。(文:陳雯・中国科学院南京地理・湖沼研究所研究員、中国科学院大学資源・環境学院教授、長江デルタ地域一帯化の政策決定諮問専門家。王震霆・中国科学院南京地理・湖沼研究所ポストドクター、日本・熊本大学博士)
原宿・表参道エリアは渋谷に近い有名なファッション産業エリアだ。これまで何度も危機に直面しながら、打ち負かされなかっただけでなく、危機をチャンスに変え、適応力のあるモデル転換をして、繁栄し続ける旺盛な生命力を保ってきた。その経験や手法は大いに参考になる。
20世紀初頭にコレラの流行を経験した日本は、コミュニティの緑化と公衆衛生に関する法律を制定して清潔を保つよう努め、日本の清潔さは世界でも知られるようになっていった。1950-60年代には明治神宮の表参道が建設され、沿道にケヤキが植えられた。環境が美しく整い、米軍施設のワシントンハイツや東京五輪の選手村が作られ、異国文化にあこがれる若者を引きつけ、消費エリアと文化的企画が静かに発展していた。原宿セントラルアパートと同潤会青山アパートは当時の2大流行発信地で、前者には荒牧太郎さんのファッションブランドの店、伝説の喫茶店・レオンなどがあり、後者は当時の日本で最先端の鉄筋コンクリート造りのランドマーク建築だった。
70年代にオイルショックが起きると、日本経済は低迷した。そうして都市エリアでは新しい消費スタイルと文化クリエイティブ企画が必要とされていた。雑誌では前衛的な「原宿特集」が組まれ、森ビルグループのファッションビル・ラフォーレ原宿は大学生や社会人の好むデザイナーズキャラクターブランド(DC)に狙いを定め、竹下通りは中学生向きの安い服、華美で反抗的ムードの「竹の子族」に狙いを定め、消費層の位置づけに成功し、原宿・表参道エリアは大いに賑わった。ライフスタイルプロデューサーの浜野安宏さんはファッションビル「FROM-1st」をプロデュースし、自然-クリエイション-建物-商品の融合を理念に、互い違いになった個性的な造りの中小規模店舗が並んだ商業建築群を生み出し、このエリアの商業的価値が急速に上昇した。渋谷区は区内一部地域の用地の用途変更を決議し、裏通りの住宅の約3分の2が商業施設と住宅が一体になったビルや店舗に改造された。
90年代初めにバブルがはじけると、このエリアの市場は徐々に竹下通り風のローエンド路線へ向かい、DCの店は多くが姿を消した。やがてエリアの中心は資産が相互に支援し合い、経営が相互に助け合い、交流を通じて共同でクリエイティビティを生み出す産業協力へと移っていった。93年にはセレクトショップ「NOWHERE」がセントラルアパートに開店し、アーティスティックなファッションブランド「MILK」とコラボレーションして若い男性を引きつける「ストリートファッション」を打ち出した。すると「裏原系」と呼ばれる裏通りの店が次々開店して、新たな消費の創造に乗り出した。こうした店舗は全体として元の街並みの雰囲気を残しながら、自然と一体化し、道に迷ったり道を尋ねたりすることでデザイナーも消費者も絶えず何かにぶつかるような感覚を味わい、それがきっかけとなってより多くのビジネスのアイディアや創作のインスピレーションが湧くとされた。とても重要なことは、ラフォーレが打ち出した若いデザイナーをはぐくむインキュベーター型サブブランドが、整った経営のプロセスとカリキュラムを備えた店舗支援システムを構築し、ストリート消費を牽引したことだ。