西南戦争で右肋骨に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官――。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが5日、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。
文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の1893年1月19日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
これによると、斎藤は77年2月20日に内務省の警視局で警部補となり、同5月17日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。4日後の同5月21日に大分県の嵯峨へ着き、同7月12日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同8月15日で、戦闘終結後の同10月24日に臼杵で乗船。帰京後の79年10月8日に勲七等を与えられた。
81年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年11月11日に巡査部長となり、翌年12月に月給が12円から15円へ昇給した。階級は85年7月3日に警部補、88年11月1日に警部へ上がり、92年12月14日に退職。当時48歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、16年間の勤務に対する恩給は年46円だった。
これらは妻のトキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
恩給関係文書からは、斎藤がトキヲと結婚した年月日も新たに判明した。一般的にトキヲとは再婚だったと認識されているが、最初の婚姻だった可能性が高い。
文書は文官扶助料の請求書をまとめた「大正五年恩給文官扶助料十五巻六十一」。妻トキヲも斎藤の死亡翌年の1916年に申請していた。
これによると、明治維新後に「藤田五郎」と名乗った斎藤は、1874年3月17日にトキヲと結婚。戸籍はトキヲを「妻」とし、再婚を示す記載はなかった。〔共同〕