「考えなしで、行き当たりばったりの人生だった」。黒田征太郎さんはそう語る=北九州市門司区、福岡亜純撮影
童心にかえったような、純粋さを感じさせる自由な描線と色彩感覚。イラストレーターの黒田征太郎さんが生みだすイメージは、懐かしさと強い生命力を見るものに呼び起こす。2009年に70歳で北九州市に移り住み、7年余り。旺盛な創作は、戦争と米国に翻弄(ほんろう)された自身の過去への問いかけでもある。
大正ロマンの香りただよう観光地「門司港レトロ」の一角。JR門司港駅に近い旧JR九州本社ビルの2階に、現在の仕事場はある。待ち合わせ時間の少し前に一人で現れ、大量のカンバスが並ぶ室内へと招き入れてくれた。「どれも発表するあてのないまま描いている。描くこと自体が好きなんです」
第2次世界大戦が始まる1939年、大阪市の道頓堀に生まれた。「名前も征服の『征』。もろに戦争の影響を受けて生まれてきたんじゃないか。戦争の子ですよ」。5歳で兵庫県西宮市に引っ越すが、その直後、45年の神戸大空襲で自宅を失う。
「爆弾が落ちたけれど、不発弾だった。後で見たら、2階建てのうちの屋根から床下まで穴が開いていた。僕たちは庭先につくった小さな防空壕(ぼうくうごう)に入っていたから、爆発していたらひとたまりもなかった」と話す。
滋賀県に疎開したが、翌年に父親が病気で亡くなると生活が苦しくなった。高校1年のある朝、通学のための汽車に乗ったまま家を出たという。「住んでいた場所にも家庭にもなじめなかった。この環境から抜け出ようと、そればかり考えていた」
知り合いのつてをたどり、横浜の船会社に入社。船員として乗り込んだのは、米海軍関連の船だった。運航していたのは下請けの日本企業で、船員も日本人ばかり。「昨日まで米国は敵だと教わっていたのが、昭和20年8月15日以降、ものの見事に変わった。僕なんかも熱狂したクチですね」とふり返る。
1年半ほどで故郷の大阪に戻るが、先の見えない日々は続いた。日雇い仕事に明け暮れる中で思い出したのが、小学生のころ、手塚治虫の「新寶(たから)島」(酒井七馬原作)に影響されて描き始めた絵の楽しさだった。
街を歩いても、雑誌の表紙やポスター、映画館の看板が気になった。「美しいな、かっこいいなという気持ちが心のなかに澱(おり)のようにたまっていったんでしょう。矢も盾もたまらず、そういう道に入りたい、と」