開会式でプラカードを手に入場行進するPL学園の土井塁人君=9日、京セラドーム大阪、内田光撮影
白血病と闘って留年し、高校生活は4年目。今夏の大阪大会を最後に休部となるPL学園3年の土井塁人君(19)は記録員としてベンチに入る。大会規定で今夏は選手としては出られない。今までチームの戦術は土井君が考えてきた。初戦は15日。励ましてくれた仲間を今度は自分が支える。
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2013年9月。入学して半年が経つ頃、微熱が続いた。「風邪かな」。10月になると40度台まで上がった。春夏の甲子園37回出場、7回優勝の強豪。「あこがれのPL学園で野球をしている。同級生に負けたくない」。体調不良など、言い出せなかった。
10月15日、耐えきれず病院に。父崇正さん(46)が駆けつけると、医師は「白血病です。生存率は30~40%。必死に闘わないといけない。告知しましょう」。土井君は父と2人きりになると、「病気になってごめんなさい」と泣いた。
医師から「骨髄移植は完治の可能性が高いが当分運動ができない」と言われ、抗がん剤治療を選んだ。「野球ができないなら死ぬのも一緒」との思いだった。高校野球生活は短い。「体力を戻すのが間に合うかな」ともこぼした。病室には当時の主将中川圭太さん(現東洋大)が持ってきたユニホームを飾った。
薬の副作用で髪が抜けて強い吐き気が続き、寝たきりの日々が続いた。泣きながら「絶対に復帰する」と誓った。崇正さんは「絶対大丈夫」と言いながら、病室を出て、そっと泣いた。
14年2月末に退院。肩を借りないと、歩くことさえできなくなっていた。それからが「地獄」だった。食事どころか、つばものみ込めない状況が1週間余り続いた。「死にたい」「殺して」と母典子さん(46)に漏らした。
それでも、同年3月下旬、寮に戻った。留年して1年生をやり直した。一緒に入学したチームメートは体も大きくなり、技術も上がっていた。みんなが練習するグラウンドの周りを歩くことから始め、やる気を燃やした。体調が戻るとひたすらバットを振った。
復帰から1年。2年春に登録選手に入った。「PL学園のユニホームを着て、背番号をつけて、大会に出場するために練習してきた」。泣きながら両親に電話した。夏も2試合に代打で出場。準々決勝の大体大浪商戦では次打者席で敗戦を見届けた。選手として最後の夏を終えた。昨秋、薬の治療を終え、5年間再発しなければ完治とされる。
いまの仲間は1歳下だが、同級生のように接してほしいと頼んだ。体が思うように動かないときに気遣ってくれ、自主練習も協力してくれた。支えてくれた仲間に恩返しがしたい、と思う。現監督は野球経験がなく戦術は土井君が考えてきた。チームの司令塔だ。
PL学園の歴史は今夏でいったん終わる。土井君は「甲子園に行って、日本一になることが目標。この仲間で、1日でも長く野球がしたい」と話した。(荻原千明)