兵庫県高野連顧問の村上裕さん。練習試合にも駆けつけ、選手たちの活躍を見守る=兵庫県尼崎市
決勝戦が28日午後にある兵庫大会。会場に足しげく通い、球児の活躍に目を細める85歳の姿が今年もあった。兵庫県伊丹市在住の県高校野球連盟顧問、村上裕(ゆたか)さん。終戦後、再開された第28回大会(1946年)にマネジャーとして参加。以来、選手、監督、審判と立場を変えて70年。「野球ができる世の中はすばらしい」と熱く語る。
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1930年生まれ。神戸市東灘区で育った。10歳のころ近所の空き地でゴムまりとおもちゃのバットで野球に親しんだ。43年、旧制の灘中学校(現・灘中高)に入学。だが戦局は悪化の一途をたどり、「敵性スポーツ」の野球部はすでになかった。弓道部に入った。
45年になると、神戸への空襲も激しくなった。爆撃にさらされ、道端で亡くなっている同級生の姿を見た。「次はおれかな」と思っていたころ終戦した。
「野球部を復活させようや」。友人に誘われ、マネジャーになった。米兵にソフトボールのバットやグラブをもらい、練習のたびにボールを縫い直した。
戦後、復活した28回大会。灘中は兵庫大会準々決勝で芦屋中(現・県芦屋)に敗れた。「くそーって思ってたら、選手をやってみなはれと仲間に誘われてね」。学制改革で全国高校野球選手権となった30回大会(48年)に捕手として出場。兵庫大会2回戦でまたも芦屋に敗れた。
早稲田大学に進学したが1年半で中退。神戸市立小学校の教員をしながら、母校・灘高校の監督を57年まで務めた。「野球で人は育つ、と監督をしてみたらわかった。なにくそって思う気持ちで心が鍛えられる。自分も芦屋に負けて以来、いまだに野球から離れられない」と言う。
監督を退くと「審判に」と声がかかった。60歳の90年まで審判を務め、県高野連の審判部長などを歴任した。一線を退いた後も球場通いは続き、しばらくは車の中に審判道具を詰め込んでいた。「審判の人員に穴があいたら、私がグラウンドに立とうと思ってね」
この夏も2日に一度は球場に通った。「グラウンドの熱気、選手たちの思いが体にしみこんでくるような感覚がある。自分の気持ちが高ぶってくる。プロ野球では味わえない感覚があるから、ここまで関わってきた」と村上さん。
兵庫大会の決勝がある明石トーカロ球場(兵庫県明石市)は戦時中、食糧難で芋畑に転用された。戦後初の大会時には「まだグラウンドがぼこぼこに荒れていた」と振り返る。
「親戚も友人も戦争で亡くなった。自分も爆撃をくぐり抜けた。そんな時代を経て、高校野球に携われるのは本当にありがたい」。この日も球場に足を運んだ村上さんはそんな思いで球児たちを見つめた。(吉沢英将)