「24時間、指がジーンとしびれているんです」と語る徳田昭博さん。ボタンをはめるのにも苦労するという=9月27日、東京都品川区、岡田将平撮影
水俣病が公式確認されて今年5月で60年が過ぎた。被害者に一時金などを給付する救済策の申請は4年前に締め切られたが、九州の不知火(しらぬい)海沿いのふるさとを離れ、情報が届かなかった人がいる。体の不具合との関係を疑っても、周囲の偏見を恐れて申請できなかった人も。今なお被害の訴えは相次いでいる。
1500人に水俣病症状 2012年、救済期限後に検診
そのポスターは東京都内の病院に張り出されていた。「水俣病」の文字。別の病気で受診した東京都荒川区の徳田昭博さん(63)の目が止まった。手のしびれなどの症状が書かれ、自分のそれと一致していた。「自分も水俣病ではないのか」。2014年の暮れ、救済策の締め切りから既に2年余りが過ぎていた。
不知火海沿岸で救済策対象地域の鹿児島県出水(いずみ)市高尾野町出身。家族は行商人から魚を買い、潮干狩りで貝も採った。熊本県水俣市は県境を挟んだ隣だが、水俣病はよそ事だった。高校卒業後の1972年に、就職で東京に出た。
5年ほど前から手のしびれが顕著になった。通院しても一向に改善しない。シャツのボタンをはめるのも苦労し、財布から小銭を出す時にこぼすことがある。
14年にポスターを見たのと同じ頃、出水にいる兄が、国、熊本県、原因企業チッソに水俣病被害の損害賠償を求める訴訟に参加すると聞いた。自身も都内で検診を受けると症状が確認され、昨年原告に加わった。首都圏に住む姉と妹、地元の母も原告となった。訴訟に関わって初めて、親戚に認定患者がいると家族が教えてくれた。無縁と思っていた水俣病が、急速に身近な問題になっていった。
自分のように故郷を離れた人は情報が届かず、被害に気づく機会は少ないと思う。「60年間、水俣病と自分は結びつかなかった。(行政は)気づく機会を提供してほしい」