千住大橋橋詰テラスに立つ演歌歌手の渥美二郎さん。後方は隅田川=東京都足立区、堀英治撮影
夜風に赤ちょうちんが揺れる。東京の北東部にある北千住(きたせんじゅ)駅(足立区)。表通りから裏に入ると、細長い道が迷路のように続く。密集する居酒屋やスナック。酔客のざわめきも聞こえてくる。地元出身の演歌歌手・渥美二郎さん(64)=本名・渥美敏夫=は言う。
「各駅停話」一覧
“テツ”の広場
「北千住は僕の育ての親です」
父は「流し」をしていた。「1曲いかがですか」。ギター片手に酒場を回り、客のリクエスト曲を演奏する仕事である。東京五輪が開かれた1964(昭和39)年、中目黒までの約20キロが全線開業した日比谷線。北千住は勤め帰りのサラリーマンらで夜ごとにぎわった。30~40人の流しが一緒に寝起きする寮もあったという。
「僕も自然とギターの弾き方を覚えました」と渥美さん。69年、16歳のとき、流しの世界に入った。3曲200円。一晩で5千円は稼いだ。大卒社員の初任給が3万円台だった時代である。だが下手だと客から怒られ、時に出入り禁止に。「必死で勉強し、何でも歌え、弾けるようになりました」
8年の流し生活を経て作曲家・遠藤実さんに師事。北千住から電車を乗り継いで中野にあった事務所に通い、レッスンを受けた。CBSソニーから歌手デビューしたのは76年。78年、シングル第3弾「夢追い酒」を発売した。
世はニューミュージック全盛の時代だ。ピンク・レディーや山口百恵も活躍していた。そんな中、男に捨てられ、さめざめと泣く女ごころを歌った「夢追い酒」は時代と逆行しているようにも思われた。だが「渥美ちゃん、この歌、いいよ」と北千住の人たち。人気はじわじわと全国に広がり、79年度日本レコード大賞ロングセラー賞など数々の賞を受賞。売上枚数は280万枚と記録的な大ヒットになった。
「あの歌が売れなければ、もう歌手をやめようと思っていました」
37歳のとき胃がんの手術をし…