ゴム判を彫る稲垣鉦吾さん。いつも妻の晃子さんと並んで作業する=愛知県瀬戸市仲洞町
「捨て判」と呼ばれながらも、愛知県瀬戸市のやきもの作りになくてはならない手彫りのゴム判を作り続ける80代の老夫婦がいる。磁器に同じ絵柄をつける際の下書きとして使われる。後継者が少なくなった今、石川県の九谷焼の窯元からも仕事の依頼が舞い込む。
稲垣鉦吾(しょうご)さん(87)と妻の晃子(てるこ)さん(82)が営む「稲垣印舗」は、古くから多くの登り窯が築かれた同市仲洞(なかぼら)町にある。
稲垣さんはめがねをかけて作業場の板間に座り、台の上で厚さ2、3ミリのゴム板を印刀で彫り進める。窯元から持ち込まれた器や下絵をもとに、ゴム板に細い筆で絵柄を描き、彫刻を施す。1ミリ以下の細い線や小さな模様は、寸分のズレも許されない。ものの1、2分で、ササや松の模様が浮かび上がった。
晃子さんはいつも横に座って作業する。稲垣さんが彫ったゴム判に厚さ2センチほどのスポンジをのりで貼り付ける。はさみで形を整え、陶磁器に押しやすいように持ち手のボール紙を貼ったら完成だ。
1980年代までは、市内に同様のゴム判職人の業者が10軒近くあった。しかし、陶磁器に絵付(えつけ)する転写技術が向上し、需要が減った。今ではゴム判職人は半数ほどに減り、高齢化で後継者がほとんどいなくなったという。彫刻用のゴム板も手に入りにくくなった。
ゴム判は、器に絵付をしたり、器の裏に屋号を押したりするのに使う。用途は窯元によって異なる。中でも同じ絵柄の下書きとして使うゴム判は、瀬戸の業界では「捨て判」と呼ばれる。
染付(そめつけ)磁器の窯元「染付窯屋 眞窯(しんがま)」(同市中品野町)では、器にあじさいやハスといった同じ絵柄を施すのに稲垣さんの「捨て判」が欠かせない。眞窯の加藤真雪さん(35)は「捨て判を作る人がいなくなったら、私たちにも死活問題です」と心配そうだ。
担い手が減り、最近は瀬戸だけでなく、九谷焼で有名な石川県能美市の窯元などからも依頼を受ける。
稲垣さんが生まれた1929年、陶器の絵付師だった父が「自分で商売を」と創業した。愛知県立瀬戸窯業(ようぎょう)学校(現在は高校)に進んだ稲垣さんは、在学中に第2次世界大戦を経験。学徒動員により工作機械の砥石(といし)の製造工場や洋食器工場で奉仕した。戦後は、地元の製陶所に勤めた後、父と同じ道に入った。
稲垣さんは「時代がこれだけ進化すれば、仕事がなくなるのは世の宿命」と話す。稲垣さんも最盛期には顧客を約100軒抱えたが「今は30~50軒くらいかな」。2人の息子には、先行きの見えない家業を継がせようとしなかった。
最近は、体もままならない。一昨年、体調を崩し、病院で週1回、輸血を受けながら仕事を続ける。
それでも「転写だとあまりにも味気ないから、やっぱり手で描いたものがいいという人もいる。時代遅れの技術でも、必要としてくれる人がいる」。だから、稲垣さんは「手を休めるわけにはいかない」と言う。
「起きて半畳、寝て一畳」が信条。生きていくのに、多くのものは要らないという意味だ。「こんな狭いところでやれる商売も少ないよ」。夫婦が座る小さな作業場を指して、稲垣さんは目尻を下げた。(小若理恵)