百名城の原画と手ぬぐいを前にする池田公治さん=堺市中区
全国を旅した城郭画家の荻原一青(おぎはらいっせい、1908~75)が描いた「百名城(ひゃくめいじょう)」の手ぬぐい用の原画99枚と、大阪伝統の染め方で作った103種類の手ぬぐいが、堺市中区の元染色職人池田公治さん(80)宅で見つかった。荻原の郷里、兵庫県尼崎市の市立地域研究史料館に寄託される。辻川敦館長は「貴重な文化財として公開したい」と話している。
荻原は戦後の復興期から高度成長期に各地の城を巡り、復元図などを描き続けた。幼いころに親しんだ尼崎城の石垣や堀がなくなったことを悲しみ、城の絵を描き始めたとされる。露天商や日雇い労働者として働き、お金がたまると全国に旅に出たという。
池田さんは中学を卒業後、叔父が営んでいた堺の染工場へ。手ぬぐいの布地に染料を注いで染める大阪伝統の注染(ちゅうせん)で、生地にのりを置く工程「板場」の職人として働いた。
歴史好きだった池田さんは63年に城巡りの愛好家の会に入り、会員だった荻原と出会った。ある日、荻原から「私が絵を描くから手ぬぐいを作ってみないか」と提案された。
最初の1種は65年に作った彦根城(滋賀県)。いつも紺色のベレー帽姿の荻原は「私の描いた通り崩さないで作ってほしい」と、色も細かく注文した。池田さんも職人の意地があり、月1種のペースで原画をもとに城の手ぬぐいを作った。
「池田君、百城までいこう」という荻原との約束通り、73年の山形城まで8年かけて103種のシリーズを完成させた。大坂城は3種、尼崎城は2種あり、荻原の思い入れの強さがうかがえる。水車と組み合わせた淀城(京都市)や桜が背景の弘前城(青森県)、雪の金沢城などもある。
池田さんは毎回50~80枚の手ぬぐいを作り、10枚を荻原に渡し、残りを会員に50~60円で販売した。染料がにじんだり、売れ残ったりして池田さんの持ち出しも多かった。荻原は晩年体調を崩して尼崎の病院に入院。見舞った池田さんに「腰が痛くて仕事ができない」とこぼしたという。それが最後の別れになった。
池田さんは昨年5月、自宅の屋根裏で段ボール箱を見つけた。ふたを開けると原画と手ぬぐい、型紙があった。原画は縦約35センチ、横約85センチ。手ぬぐいはすべてあったが、原画は岸和田城(大阪府)、高槻城(同)、津城、明石城(兵庫県)の4枚がなかった。注染の型紙も98枚見つかり、すべて尼崎の史料館に寄託すると決めた。池田さんは「荻原先生の郷里の人に作品を見てもらえるのが一番うれしい」と話している。
淀城主の寄進で整備された妙教寺(京都市)は、手ぬぐい発見の知らせを聞き、鳥羽伏見の戦いの戦死者らの150回忌となる2月の法要で、原画をもとに復刻する淀城の手ぬぐい300枚を配るという。(村上潤治)
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〈荻原一青〉 兵庫県尼崎市生まれ。本名は信一。大阪で絵を修業後、定職に就かず、全国の城の古い絵図などを調べ、精密な復元図を描いた。多くの作品は1945年の尼崎空襲と50年のジェーン台風で消失したとされるが、代表作は「日本名城画集成」(小学館)などに収録。