阪神支局3階にある襲撃事件資料室。小尻知博記者らが座っていた応接セットや事件当時の写真などを展示している=兵庫県西宮市、吉沢英将撮影
朝日新聞阪神支局襲撃事件から5月3日で30年。局舎3階には殺害された小尻知博記者(当時29)の遺品や襲撃事件の資料が展示されている。事件の記憶を伝える品々を紹介する。
特集:阪神支局襲撃から30年
■襲撃事件資料室を歩く:上
1人掛けの黒いソファに、かすかに白線が残っている。
小尻記者は撃たれた後、体を反転させ両ひざを床についた。合成皮革の座面に顔をうずめるように崩れた。その跡に捜査員がチョークでつけた印だ。
1987年5月3日夜。記者3人が仕事に区切りをつけ、くつろいでいた応接セットは阪神支局2階のほぼ中央にあった。
最初に凶弾を浴び重傷を負った犬飼兵衛記者(72)は、小尻記者の向かい側、3人掛けのソファに座っていた。背もたれの表面は、警察の捜査のために一部切り取られている。
その後、小尻記者に2発目の散弾が放たれた。
米国レミントン社製のピータース7・5号弾が使われた。プラスチック製円筒のカップワッズ(直径約2センチ、長さ約5・8センチ)に、直径約2・4ミリ、重さ約0・08グラムの鉛の粒が約400個詰まっていた。銃口から出た後にはじけ、鉛の粒が広がって飛ぶ。
84年までに約1千万発が輸入された。鳥撃ち猟やクレー射撃のトラップ競技に使われ、日本で最も消費量が多かった。
朝日新聞襲撃など一連の事件で散弾銃は四つの現場で使われ、捜査当局が「物」の捜査で最も重視した。ただ、盗難や紛失で闇社会に消えた銃は相当な数にのぼった。
小尻記者の左脇腹に散弾が音速を超える速さでめり込んだ。その腹部などのエックス線写真は2003年に一連の事件の時効が完全に成立した後、捜査当局から関係者に返還された。散弾粒約200個が体内ではじけ散った状態を写しだす。
搬送された関西労災病院(兵庫県尼崎市)で執刀した外科医によると、散弾は脾臓(ひぞう)を突き破り、胃の裏側ではじけた。鉛の粒は大動脈と、内臓に血液を送るため枝分かれした部分に大きな損傷を与え、膵臓(すいぞう)などの内臓もズタズタに。小尻記者は約5時間後、失血死した。
重傷を負った犬飼記者の右手のエックス線写真もある。小指が吹き飛ばされ、薬指と中指も砕くように傷つけられた。
そのとき、小尻記者は、ブルゾンを身につけていた。青みがかった灰色の薄い木綿の生地。かなりの部分が血に染まり、褐色に変色している。
左脇腹のあたりには、縦約4センチ、横約9・4センチの卵形の穴。約1メートルの至近距離で放たれた散弾は、ここから入った。手術のため、胸元の部分が横一文字に切り裂かれている。
妻裕子さんの見立てで購入し、お気に入りだったらしい。事件1週間前に撮られた遺影も同じブルゾン姿だった。事件の風化を防ぐためならと遺族が了承し、発生20年を機に公開した。
小尻記者が座っていたソファの上に短冊が置かれている。
《吾子(あこ)の座のソファー白線梅雨じめり》
資料室には、ほかにも句がつづられた短冊を所蔵している。
小尻記者の母みよ子さんは事件後、チラシに思いを書き付け始め、勉強を重ねて俳句結社に参加。息子を突然奪われた悲しみや無念を句に託した。02年4月、371句を編んだ句集「絆」を出版した。
《憲法記念日ペンを折られし息子の忌》
《ことごとく思いは同じなぜなぜと》
みよ子さんは15年7月15日、84歳で亡くなった。(中村尚徳、阿久沢悦子)