「意味は分からなくても、体が震えるようなことばがある」と話す鷲田清一さん=東京都中央区築地、朝日教之撮影
朝日新聞1面のコラム「折々のことば」が、4月に3年目を迎えました。筆者で哲学者の鷲田清一さんに、この2年間、毎日どんな思いで人々のことばに耳を澄まし、コラムを書き続けてきたのかを語ってもらい、素朴な疑問をぶつけてみました。
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最初はことばのストックがいっぱいあったので「こんなことばがあるよ」とみんなに伝えたい、というノリでしたが、3年目になって、ことばを探すことも増えてきました。
雑誌やテレビ、インターネット上にもいろんなことばがあります。本も古典だけじゃなくて、刊行されたばっかりの本もあるので、目配りが必要です。知り合いから「こんなのあるよ」と教えてもらったときは、心配してくれているのか、とうれしくなりますね。
物書きになったばかりの若い方やローカルな場で活動されている方のことばを紹介すると、こちらは意図していないけれど、その方々から「励まされました」というお手紙をいただくことがあります。僕の仕事もちょっとは役に立ってるんやな、と。
年配の方からは「よう分からん回が多いけど、毎日読んでいます」という反応もあります。でも、意味はよく分からないけど、なぜかぐっと引き込まれるといったことばが一番面白いし、人を動かすところがあると思います。哲学の本なんて、読んでもせいぜい2割くらいしか分からない。でも、そこには心をわしづかみにされるようなことばがいっぱいある。例えていえば、歌舞伎の見得(みえ)です。ストーリーはよく分からなくても、見得をきったときの、あのぞくっとする感じ。だから哲学者の本は読み続けられるんです。
「折々のことば」は新聞連載なので、できるだけ分かりやすく書くよう努めています。でも本当は、僕が引用したことばを読まれた方が、僕が哲学に惹(ひ)かれたように、よくわからないけれど惹かれるようになればと思っています。それをきっかけに、新しい思考回路が開けるはずです。
このところよく「ポスト真実の時代」だと言われます。真実が通用しなくなった、という意味で言われているのでしょうが、そもそも「真実の時代」などあったためしがあるでしょうか。同時代の社会をとらえるというのは、目の前にあるさまざまな出来事や徴候(ちょうこう)のなかから、意味あるものをつかみだし、再構成することです。そこには一定の視点があります。「事実」は「解釈」でもあるのです。
路上でも国政の場でも、最近、「建前」すらもはや通らないかのような印象があります。でも社会を支えてきたのは、建物の梁(はり)のような理念です。幾何学を成り立たせている「点」や「線」が本当はどこにも実在しえない理念であるのと同じで、言論の自由や多様性の尊重も近代社会を成り立たせてきた理念です。それがいまとても危うくなっている。
こうした理念は「これを崩したら社会はもたない」という危機感に裏打ちされていなければ、それこそもちません。だからこそ、そういう「建前」をたえず手入れしておく必要があるのです。その手入れに欠かせないことばを、たとえ蛍の光のようにほのかなものであっても大切にしたいと思いつつ、ことばを選んでいます。(聞き手・西岡一正)
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わしだ・きよかず 1949年、京都市生まれ。哲学者。大阪大教授・総長などを経て、京都市立芸術大学学長や、せんだいメディアテーク館長を務める。「素手のふるまい」(朝日新聞出版)など著書多数。PR誌「本の窓」(小学館)で評論「つかふ 使用論ノート」を連載中。