寝具や食料の入った重さ20キロの荷物を持ってスキー行進をする第5普通科連隊の隊員たち=今年2月、青森市、中野浩至撮影
青森市の八甲田連峰で、旧陸軍青森第5連隊の将兵199人が命を落とした雪中行軍遭難事件。旧陸軍によって、別ルートで八甲田越えした弘前第31連隊の成功は封印されたが、命がけで弘前隊を道案内した7人の地元の村人は「七勇士」と呼ばれ、ひっそりたたえられてきた。遭難事件で、最後の遺体が発見されてから28日で115年。7人の功績に改めて光を当てようという動きが出ている。
「ずっと先頭に立たされていましたが、雪をこいで進むことは100メートルも続きません」。1902(明治35)年に雪中行軍が実施されたのと同じ1月下旬、青森県十和田市の市民図書館で、紙芝居「七人の勇者」が上演された。39人(38人説もある)が参加した、弘前隊の道案内を務めた地元の若者7人の功績を描いたもので、地元の研究家らが2年ほど前に立ち上げた「八甲田山雪中行軍を語り継ぐ会」が演じる。
弘前隊は、遭難した青森隊が出発した3日前に弘前市を発った。十和田湖を経由する反時計回りのコースをとり、区間ごとに地元住民に道案内させた。難航が予想された八甲田連峰の横断には、ふもとの十和田市から20~30代の猟師ら7人が同行。11泊12日全224キロの行軍を一人の死者も出さずに完遂させた。
語り継ぐ会は、事件研究の草分けで、新田次郎が小説「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」の執筆にあたって取材協力を求めた小笠原孤酒(こしゅ)の資料を整理しながら、地元で語り継がれてきた7人の功績の再評価を進める。
蛯名隆会長(62)によると、猛吹雪のなか7人は常に先頭を歩いた。隊が露営を余儀なくされた時は、空き小屋を見つけて兵士らに暖を取らせた。中には、その後亡くなるまでの十数年間、凍傷による障害を負い続けた人もいたという。
蛯名会長は「7人がいなければ、弘前隊も青森隊と同じ運命だったかもしれない」と話す。
しかし、旧陸軍により遭難した…