見頃を迎えた広島平和記念公園のバラ。手前の黄色いバラが「ヒロシマヘイワキネンコウエン」=広島市中区、上田幸一撮影
広島平和記念公園(広島市中区)の一角にある花壇で、見慣れぬ名前のバラが咲いている。「ヒロシマヘイワキネンコウエン」。国際交流から生まれた「平和のバラ」だ。交流にかかわった被爆者もまた、「ヒロシマ」の名を冠した新しい品種作りに励んでいる。
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「原爆の子の像」近くの花壇に咲く淡い黄色のバラ。品種名は「Friedenspark Hiroshima」。ドイツ語で「広島平和記念公園」の意味だ。花びらが反り返り、ややとがっている。花の中心が高い「半剣弁高芯(けんべんこうしん)」に分類される。
広島市植物公園によると、バラを通じた国際交流の返礼として、1999年にドイツ中西部のエルトビレ市から贈られた。広島側から贈ったバラの一つ、「ヒロシマアピール」を作り出したのは園芸家の田頭数蔵(たがしらかずぞう)さん(88)=広島県廿日市市。原点は、16歳の時に見た焦土の光景にある。
45年8月6日。郊外の軍需工場に向かう列車の窓から、白いものが落ちるのを見た。そして閃光(せんこう)。遺体の合間をぬい、走って帰った広島市上天満町(現・西区)の自宅は燃え残ったが、弟は帰らなかった。
少したち、自宅裏に「キムラのおじいさん」が引っ越してきた。「こんな時に」「非国民」と非難されながらも、バラを育て続けたという人だ。焼け残った枝を挿し木にして育て、再び美しいピンクのバラを咲かせていた。見ほれていると、「大事に育てて」と苗木を分けてくれた。
バラに捧げた人生が始まった。焼け跡を掘り起こし、肥やしを運ぶ。被爆地に花々が増えていく。園芸業に就き、バラづくりの国際コンクールで入賞した。被爆者医療に尽くした外科医・原田東岷(とうみん)さん(99年に87歳で死去)が70年代に提唱した、バラを通じた国際交流に賛同。「ヒロシマアピール」や「ピースメーカー」などの新種をつくり、世界各地に寄贈してきた。
こうした活動を新聞記事で知っ…