松倉ひでさん(左の遺影)が伊東孝一さんに出した手紙を読み上げるボランティアの篠原美優さん(右端)。娘の波佐尾恭子さん(中央)は顔を覆って泣いた。左端は息子の紀昭さん=8月9日、北海道夕張市、金川雄策撮影
1945年の沖縄地上戦で戦没した兵士にまつわる手紙を、20代の学生たちが遺族を捜して届ける活動に取り組んでいる。戦後72年。活動を通じ、学生たちは「戦争はまだ終わっていない」と実感。「若い私たちだからこそ」と遺族捜しの旅を続けている。
特集:沖縄はいま
8月9日、神奈川大4年の根本里美さん(21)と中央大3年の篠原美優さん(20)、高木乃梨子さん(20)ら5人は、北海道夕張市の松倉紀昭さん(80)宅を訪ね、黄ばんだ封書の手紙を手渡した。手紙は、紀昭さんの母ひでさんが46年に書いたもの。沖縄地上戦に投入された陸軍第24師団歩兵第32連隊第1大隊長だった伊東孝一さん(96)=横浜市金沢区=が、夫の死を伝えてきた手紙に対しての返信だった。
「本当は後を追いたい心で一杯なのでございます。されど、残されし3人のいとし子をおもうとき、それは許されないこと。すべてを子らに捧げて、それがせめてもの散りにし人への妻の誠でございます(抜粋)」。初めて目にする母の手紙。紀昭さんは「間違いなく母の字です」と目をしばたたかせた。
戦争や父のことを多くは語らず、ひとりで子どもたちを育て、51歳で逝った母。紀昭さんの妹の波佐尾恭子さん(74)=北海道恵庭市=は「母は夜空の星を見あげ、一番輝いているのが父さんだよって言っていた。厳しかったが気丈な母だった」と涙にくれた。
紀昭さんは警察官だった父の「遺志」だと母から知らされて教師を目指し、60歳まで小学校教諭として平和教育に取り組んだ。学生たちから、伊東さんから伝えられた戦地での父の様子や沖縄戦の激闘について静かに聞いた紀昭さんは「若い人たちがこうして伝えてくれることがうれしい。子どもたちを戦場に送ってはならない。手紙を子や孫に伝え、宝物にしたい」。仏壇の父母の遺影のそばに手紙をそっと供えた。
伊東さんは「部下たちの最期を一刻も早く正しく遺族に伝えることが生き残った者の使命」と考え、復員後、部下の遺族約500人に、打ち砕いた沖縄のサンゴとともに手紙を送っていた。その返信として、遺族からは計356通の手紙を受け取ったという。
根本さんらが手紙の存在を知ったのは、ボランティアで沖縄戦の遺骨収集活動にかかわったときのこと。20年近く遺骨収集と遺留品の返還活動をしている青森県の浜田哲二さん(54)夫妻と出会い、伊東さんの手紙のことを伝え聞いた。
伊東さんは「自分が死ぬ時、一緒に火葬しよう」と誰にも語らずにいたが、活動に取り組む浜田さんらを知り、その熱意に心を打たれた。「戦後72年、世代も代わった。愚かな戦争を二度と起こしてはならない」という思いを込めて昨年、すべての手紙を浜田さんらに託したという。