全国高校野球選手権の開幕試合を観戦する星野仙一さん=2005年
中日、阪神、楽天で指揮を執り、4日に70歳で亡くなった星野仙一さん。高校時代に出られなかった甲子園を愛していた。阪神の監督を退任した後の2005年、夏の全国高校野球選手権を観戦した。
阪神変えた闘将の本気 「球宴に選ぶな」異例の要望も
星野さんは記者席から身を乗り出すように入場行進を見ていた。「慣れ親しんだ甲子園なのに、この興奮ぶりは何なんだろう」
2005年8月6日、全国高校野球選手権の開会式。スポーツ面の甲子園観戦記のゲストとして、星野さんを招いた。03年まで阪神担当をしていた縁で、隣で話をうかがった。
星野さんが岡山・倉敷商高校代、あと一歩で甲子園を逃したことはよく知られている。3年夏の東中国大会決勝、米子南に2―3で敗れた。甲子園の開会式のテレビ中継が始まると、家の押し入れにこもって泣いた。「あの中に、おれがいたはずなんだよ」と。
そんな話をしながら、星野さんはグラウンドを見つめていた。「どんな気持ちで歩いているんだろうな。うらやましいよ」
「そうですか? プロでは甲子園のマウンドで何度も投げて、監督として胴上げもされたのに」と聞くと、「全然違うわ」としかられた。「ここは高校球児のものなんだ。中日の選手として初めて入った時、芝生にスパイクで入ってもええんかなと思った」
球児の連投問題についても聞いた。阪神担当時代は夏になると「猛暑の中で球児を酷使して。(主催者の)朝日がしっかりせないかん」などときつく言われていたので、批判をいただくのではと予想した。
またも意外な答えが返ってきた。「でも、ええ。青春かけてやってるんや! なあ、そうやろ!」。そう言って、わたしの隣にいた記者の肩を強くたたいた。愛媛・松山商高のエースとして1969年夏の甲子園で優勝し、明大の後輩でもある井上明記者だった。星野さんの心は、甲子園を目指して投げていた球児に戻っていた。そして、決勝の延長十八回引き分け再試合を連投した後輩への優しさがにじんでいた。
今夏は100回の記念大会。甲子園を愛した星野さんに、大会を見て、語ってもらいたかった。(稲崎航一)