アムステルダム在住の日本人ピアニスト、向井山朋子さん。家庭医に対して「認知症になったり不治の病になったり、耐えられない痛みが襲ってきたりしたら、安楽死したい」という書面を提出している=向井山さん提供
渡る世間と安楽死:5
「安楽死、まだあきらめていない」と話す脚本家の橋田寿賀子さん(92)と、オランダの安楽死事情を取材した太田啓之記者(53)が、日本的な安楽死のあり方について考える連続インタビュー。最終回は、オランダ人にはなかなか理解してもらえなかった「迷惑をかけたくないから安楽死したい」という橋田さんの思いについて、対談を終えた太田記者が考えます。
橋田寿賀子さん「安楽死、もうあきらめました」
父は、安楽死する5分前に私と記念写真に納まりました―オランダ(GLOBE)
消極的安楽死?尊厳死? 日本とオランダ、どう違う
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対談でうかがった橋田寿賀子さんの安楽死についての考えを、私なりにまとめさせていただくと以下のようになる。
「自分自身が生きたいと思っている人、周囲や家族に心から『生きていて欲しい』と望まれている人は、どんなに心身が不自由になっても、公的なお金を使って生かしてあげるべきだ」
「だけど、私のように『世の中の役に立たず、周囲に迷惑ばかりかけるようになったら、生きていたくない』と思っている人間を、本人の意思に反し、国のお金を使って生かし続けても意味がない」
「だから、人に迷惑をかけるようになったり、寝たきりになったりしたら、医師や弁護士などの第三者が本人の意思を十分確認した上で、安楽死させて欲しい」
オランダでは伝わりにくい感覚
私自身、安楽死に関する個人レベルの「実感」としては、橋田さんとほぼ同じ考えを抱いている。
特に重要なポイントは「人に迷惑をかけたくない」という強い思いだろう。アムステルダム在住の日本人ピアニスト、向井山朋子さんを取材した際にも、「一人娘に迷惑をかけたくない」という思いから、家庭医に対して「認知症になったり、不治の病になったり、耐えられない痛みが襲ってきたりしたら、安楽死したい」という意思確認の書面を提出したという話をうかがった。
だけど、オランダで取材した時に、医師会会長のルネ・ヘーマンからはっきりと言われたのは「人に迷惑をかけたくない、と言う理由だけでは、安楽死は認められない」ということだった。
高福祉の国・オランダといえども、家族が介護のために多大な負担を強いられることは起こりうる。だが、「周囲に負担をかけたくない」という感情それ自体は、安楽死の条件の一つである「本人にとって耐えがたい苦しみ」とは認められないというのだ。
理屈の上では分かる。だが、それとは別に、オランダでの取材時に終始私が感じていたのは、「日本人の『人に迷惑をかけたくない』という思いは、オランダ人には極めて伝わりにくく、理解されにくいのではないか」ということだった。
私たちが抱く「迷惑をかけたくない」という強い思い。それは「相手の感情や欲求を絶えず推し量り、自らの内面に取り込む」という日本的なコミュニケーションのあり方から生み出される感情ではないだろうか。
多くの日本人にとって、「あの人は迷惑だ」と思われることは、最大級の恥辱だ。「迷惑」は決して現実化させてはならない。相手がそう感じる可能性のあることを事前に察知し、それが実際に生じるのを「未然に防ぐべきこと」なのだ。
だからこそ、私たちは、実際に認知症になったり寝たきりになったりしてしまうはるか前から、そのことが起きる可能性に思いを致し、それが本当に家族や周囲にとって「迷惑」なのか、当事者に確認もしないまま(確認しても否定されるだけだろうが)、「安楽死したい」という思いを抱くのではないだろうか。
「空気を読まない」オランダ人の選択
一方、オランダ人は自他共に認める「議論好き」で、「空気を読まない」人びとだ。「率直であること」「積極的に自分の立場や欲求を説明すること」がコミュニケーションの基礎にある。多民族の国で、相手の立場を忖度(そんたく)したり、空気を読んだりすることを前提にすれば、致命的な行き違いが生じかねないからだろう。
高齢になってケアが必要となることが、周囲にとってどの程度の「迷惑」になるのか。その「迷惑」を緩和したり、なくしたりするにはどうすればいいのか。それを徹底的に話し合い、試行錯誤を重ねた結果が、「高負担・高福祉」路線や、隣人との支え合いを重視する国民性につながったのではないか。
もちろん、「どちらがよい」ということは一概には言えないし、そもそも私たち日本人が、一朝一夕でオランダ式コミュニケーションに変えられるわけもない。
ただ、ここで言いたいのは「人に迷惑をかけたくない」という思いは、オランダでは「耐えがたい苦しみ」とは認められないが、日本人にとっては時として「死にも勝る耐えがたい苦しみ」になりうるのではないか、ということだ。
日本で安楽死導入の議論をする際にも、この論点は外せないと思う。橋田さんは、テレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に代表されるように、庶民の生活感覚、リアリズムを徹底的に追究してきた脚本家だ。だからこそ、「日本的な安楽死のあり方」の出発点として、橋田さんの言葉には重みがあると思う。
「高負担・高福祉」望むべくもない現実
もうひとつ、安楽死の問題を考える上で直視せざるを得ないのが、対談中に何度となく話題となった「日本は借金大国」という現実だ。
オランダでは、十分なケアが受けられていない状態で、本人が安楽死を望んだとしても「本人の完全な自由意思」とは見なされず、安楽死は認められないという。ケアの状態が改善されることで、「安楽死したい」という気持ちがなくなる可能性があるからだ。逆に言えば、オランダは「高負担・高福祉」で、ケアの質がある程度保障されているからこそ、安楽死の法制化に成功している、とも言える。
では、日本はどうか。
私が厚生労働省を取材していた2006年末、第1次安倍内閣は、借金返済分を除いた財政収支(プライマリーバランス)を2011年度に黒字化する、という目標を掲げていた。当時の借金残高は832兆円。
それから11年が経過したが、第4次安倍内閣はプライマリーバランスの回復目標を2020年度からさらに先送りすることを決め、借金残高は1085兆円と当時の1.3倍に膨れあがっている。
仮に今から消費税率を大幅に引き上げたとしても、相当部分は社会保障の充実ではなく、借金の返済に回さざるを得ない。もはや「高負担・高福祉」は求めるべくもなく、せいぜい「高負担・中福祉」か、「中負担・低福祉」が現実的な選択肢と言わざるを得ない。
認知症になったり、寝たきりになったりしても、十分な公的サポートが受けられず、家族の介護負担が増すばかり――。現代の日本で当たり前の光景となりつつある状況が、今後さらに悪化すれば、人びとの「周囲に迷惑をかけたくないので、認知症や寝たきりになったら安楽死したい」という思いはさらに強まるだろう。
そこで安楽死が法制化されれば、空気を読む国民性とあいまって、「ケアに手間のかかる高齢者は安楽死を望むべきだ」という「空気」が社会に蔓延(まんえん)しかねない――。そんな危惧を抱くのは、決して私だけではないはずだ。
だからこそ、橋田さんも「第三者による本人の意思確認」の重要性を繰り返し強調するのだろう。
「人に迷惑をかけたくないけど、お金もない。だから安楽死するしかない」――。社会全体がそんな袋小路に陥るのを避けるには、私たち一人ひとりが、安易なあきらめや絶望感にとらわれることなく、現実的で地道な努力を重ねるしかない。
ケアの質を維持するためには、税や保険料の引き上げが欠かせないという社会的コンセンサスを作っていくこと。
体が不自由になったり認知症になったりしても、生きるに値する生活の質を保つこと(多分、そのための鍵となるのは、ケアが必要な人とケアする周囲との『人間関係の質』だろう)。
安楽死について、橋田さんのように「あえて空気を読まない」本音の議論を続けること。
そうした小さな試みの積み重ねが、未来への展望を少しずつ明るくしていくと思う。