福島県遺族代表の五十嵐ひで子さん(11日午前、東京都千代田区、内閣府提供)
政府主催の「東日本大震災7周年追悼式」が11日午後、東京都千代田区の国立劇場で行われ、岩手、宮城、福島3県の遺族代表が追悼の言葉を述べた。福島県代表の五十嵐ひで子さん(70)=相馬市出身=の言葉の全文は次の通り。
特集:東日本大震災6年 3.11震災・復興
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あれから7年の月日が経ちました。もう7年なのか、いやまだ7年なのか、心の中で、いくら考えても導かれる答えがでてきません。そうだよね。想像などできない、あの絶望のふちに立たされた悲しみ、いたみ、そして傷つき、ただぼうぜんとしていましたから。
震災当時、私たち家族は相馬市の海沿いで民宿を営んでおりました。
あの日、大きな地震とともに、電気が切れ、全ての情報が途切れました。
消防団の方から「今、岩手、宮城にすごい津波が来ているから早く逃げて下さい」と言われましたが、何回も海を見に行き、すぐには逃げませんでした。
消防団の方に促され、私は夫と叔父と3人で避難を始めた直後、大きな津波に襲われました。波に体を4メートルくらい持ち上げられ、隣の家の松の木につかまりましたが、津波はどんどん押し寄せ、一緒にいた叔父が私の手から離れていき、夫も私から離れていきました。夫は、「ひで子~」「ひで子~」「ひで子~」と三度叫び、それに応えて、私も夫の名前を叫びましたが、返事はありませんでした。壁のように高く、真っ黒な波が私をのみ込んで、そのまま800メートルくらい流され、気づいた時にはがれきの中でした。「助かった~」。でも寒さで、身も心も凍るほどでした。意識が遠くなりそうな時、消防団のみなさんに助けられて、気づけば病院のベッドの上でした。
あの時、「父ちゃん、早く逃げっぺ」の言葉さえ言えていたらと思うと、自分を責める気持ちでいっぱいでした。
そんな思いが消えないまま1年がたった頃、「貴重な教訓として語り継いで」と誘われ、現在、語り部として活動しています。この震災を風化させず後世に伝えるために「自分の命は、自分で守る」「逃げる意識」を伝え続けていきたいと思います。
最後に、本当に7年なんですね。全国の皆さんからいまだ勇気をもらい、はげまされ、一歩ずつ前に進んでいます。この震災で学んだことは、忘れてはいけません。亡くなられた方々の安息をひたすら祈念し、追悼の言葉と致します。