支援施設「ほっとはうす」で作業をする松永幸一郎さん=熊本県水俣市
水俣病は1日、公式確認から62年を迎えた。この1年間、熊本県水俣市立水俣病資料館の語り部、前田恵美子さんら多くの患者たちが亡くなった。そんな中、胎児性患者の中で最も若い世代の松永幸一郎さん(54)は、思いを新たにしている。「語り継ぐことが私の使命だ」と。
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1日午前。水俣市中心部にある胎児性患者らの支援施設「ほっとはうす」に、車いすに乗った松永さんがいた。この日午後からある水俣病犠牲者の慰霊式に合わせ、中川雅治環境相に渡すための手紙を筆ペンで清書していた。
通所している胎児性患者ら5、6人と話し合い、手紙に何を書くかを決めた。「みんな歳を重ね、これまで以上に手助けが必要になっている」「(現状を学ぶため)チッソの新入社員に、ここに来てほしい」。そんな言葉を盛り込んだ。
2歳のときに両親が離婚。親戚の家で祖母に育てられた。はっきりとした母の記憶は一つしかない。小学5年の体育の授業で、お弁当を一緒に食べ、卵焼きがおいしかったことだ。
5歳で障害者施設に入所。7歳まで歩くことができず、床をはっていた。脳性まひだと思っていたが、大分県別府市の障害者を受け入れる自動車部品会社で働いていた24、25歳のときに風邪の受診で訪れた病院で見たカルテに「水俣病」とあった。
20歳のときに父親が患者認定を申請していたと、後で知った。「水俣病患者や家族への差別感情が根強かったころ。父は私が生きにくくなるのを恐れて言わなかったのかもしれない」
29歳で実家に戻り、父と義母と同居したが、十数年前に相次いで亡くなった。
水俣病の詳しい歴史を知ったのは、ほっとはうすに通い始めた38歳の頃だ。自分が生まれる4年前の1959年にはチッソの排水が原因とわかっていたのに、水銀を使ったアセトアルデヒド生産工程の水が1968年まで海に流されていたことに驚いた。「信じられなかった。すぐに止めていれば……」
胎児性水俣病は、母親が食べた魚介類に含まれたメチル水銀が胎盤を通じて影響を及ぼす。脳の発育が不十分だったり神経細胞が壊されたりし、感覚障害や運動失調などを発症する。熊本、鹿児島両県によると、55年以降に生まれた水俣病認定患者は77人(2016年3月時点)。複数の患者団体によると、そのほとんどが胎児性患者とみられ、亡くなった人も多い。
生まれてからずっと寝たきりだったり、一度も言葉を話せぬまま亡くなったりした胎児性患者もいる。高齢化が進み体調を崩しがちな患者も増えてきた。
若い頃は走ることもできたし、職場まで大好きな自転車で通っていた松永さんも、今は電動車いすが欠かせない。将来への不安は年々増しているが「母が魚介類をあまり食べなかったせいか、私の水俣病は軽い方かもしれない」と言う。
そんな自分にできることは何か――。模索し、出した答えが、語り継ぐこと。患者仲間らと県内の小中学校を訪れ、水俣病のことを子供たちに伝えている。
「患者たちはいずれ、この世からいなくなる。特に次の世代を担う子供たちに、水俣病のことを知ってもらいたい」と願う。「同じ過ちを繰り返さないためにも、命や環境の大切さを学んでほしい」(原篤司)