1972年2月に羽田空港に到着した時の横井庄一さん
太平洋戦争の敗戦から27年後にグアム島で見つかった元日本兵・横井庄一さん(享年82)。その自宅を利用した名古屋市中川区の記念館がNPO法人の管理で存続されることになった。2006年から妻の美保子さん(90)が個人で公開していたが、高齢のために継承が危ぶまれていた。
太平洋戦争末期の1944年3月にグアム島へ。「捕まれば殺される」と信じ込まされ、激戦の後、横井さんは72年まで島内の密林に潜んでいた。帰国した時には母親はすでに世を去っていた。当時、全国から集まった見舞金を充てて建てたのが、今の記念館でもある自宅だ。
美保子さんによると、「善意にお返ししたい」というのが横井さんの口癖だったという。「お返しのために『記念館にできたらな』とよく話していた」と美保子さんは振り返る。
97年の没後、美保子さんは市に土地建物を寄付しようと考えた。つてをたどって自分と同じ京都出身の故・野中広務元官房長官に、市との仲介を依頼。しかし、市との交渉は将来の存続保証をめぐってまとまらなかった。そこで、個人で自宅を記念館にし、日曜日に開放し始めた。
玄関脇の洋間に横井さんが潜んだ洞穴を竹と和紙で再現。和室に横井さん手製の機織り機やヤシの実のおわんのほか、晩年に熱中した陶芸作品も数十個並べている。
開館当初は1日200~300人が訪れたが、今も1日10~20人が全国から訪れる。帰国当時の熱狂を知る人だけでなく、若者も訪れ、ひとりで生き延びた精神力などについて美保子さんと語り合う。
しかし、美保子さんも90代になり、記念館の行く末が課題になっていた。そこで、これまでも運営を手伝っていた愛知県津島市議の大鹿一八(かずや)さん(64)が中心になり、大鹿さんの親族や知人らでNPO法人「横井庄一記念館を護(まも)る会」を設立。3月に愛知県の認証を受けた。今後、年会費3千円の正会員を募る。
大鹿さんの父方の曽祖母は横井さんの母の姉にあたる。横井さんの帰国は大鹿さんが高校生の時。病気などで高校に通えず、3年がかりで1年生をやり直しているころ、密林で耐えた横井さんを思い、頑張ったという。学生結婚しようとしたとき、横井さんが渋る親を説得したり、仲人を引き受けたりしてくれた。「気持ちが若く、話が合った」と大鹿さんはしのぶ。
今後も日曜の無料開放を続けながら、横井さん制作の陶器を使ったお茶会のほか、潜伏中は身の回りのものを手作りした横井さんにちなみ、竹のクラフト教室などを企画中だ。すでに庭での野菜作りも始めた。
約560平方メートルの土地と建物は将来、美保子さんから大鹿さんの娘が継承することも内定し、書類を信託銀行に預けた。これも40年、50年先までの存続を目指してのことだという。「命を粗末にするな、という思いを伝える記念館であり続けたい」と大鹿さんは話す。
ひとりで切り盛りしてきた美保子さんは、ほっとした様子だ。「今後も続けられそうで、ありがたい」
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記念館の所在地は名古屋市中川区富田町千音寺稲屋4175。NPOの問い合わせは大鹿さん(0567・24・0018)。(編集委員・伊藤智章)