横浜ベイスターズ時代の内川聖一選手(左)と父・一寛さん
通算2千安打を9日に達成した、プロ野球・ソフトバンクの内川聖一内野手(35)。偉業達成までの長い道のりで、野球をやめかけた時期が2度ある。決断を迫られたとき、両親が内川を優しく支えた。
ソフトバンク・内川聖一、2千安打達成 史上51人目
自らの骨盤を削り移植手術
野球生命を断たれかねない病を患ったのが、父親の一寛さん(61)が監督だった大分工高時代。1年秋に左かかとの骨に穴が開き、液体がたまる「骨嚢腫(こつのうしゅ)」になり、自らの骨盤の骨を削って移植するなど手術を3度も行った。
一時は寝たきり状態になったことも。3カ月もの入院で、一寛さんすら「(退院後も)動けるようになる保証もないし、再発するかもしれない。違う人生を歩ませた方が、とも考えた」と弱気になっていた。ただ本人は、不屈の精神でリハビリに励んでいたという。
内川は「今苦しくても体が良くなればまた野球ができる。できる時に一生懸命やろう」と逆境をプラスにとらえ、高校2年春ごろに選手として復帰。“親子鷹(おやこだか)”で目指した甲子園出場こそならなかったが、苦しい時期を共に歩み乗り越えた。
プロ入り後、イップスに悩む
2度目の危機は、母・和美さん(61)に救われた。横浜(現DeNA)時代、思ったようにボールを投げられない「イップス」や、首の神経障害など故障も重なり、選手として伸び悩んだ。8年目の2008年1月初旬。オフを過ごす大分市の実家で、和美さんに「今年だめだったら野球をやめる」と、言い放った。
すると、和美さんは優しく諭した。「やり残したことがなければやめなさい。なにも恥ずかしいことはないんだから」。これで肩の荷がおりて開き直った。背水の覚悟でシーズンに臨み、右打者史上最高打率3割7分8厘を残して初の首位打者、最多安打などのタイトルをとった。
両親に支えられ、たどり着いた2千の数字。現在は大分・情報科学高野球部副部長の一寛さんはスタンドで見守った。内川は「最高の親孝行になった」。一寛さんは「聖一らしい安打で原点に戻れたんじゃないかな。おめでとうと言いたい」。つらい時期を知るからこそ、息子の元気な体での活躍を願っていた。(甲斐弘史)