須賀神社の参道を駆け上がるみこし。奥には琵琶湖が見える=2018年4月8日、滋賀県長浜市西浅井町菅浦
琵琶湖の最北部、滋賀県長浜市西浅井町菅浦(すがうら)の住民たちが受け継いできた「菅浦文書(すがうらもんじょ)」と「菅浦与大浦下庄堺絵図(すがうらとおおうらしものしょうさかいえず)」が、新たに国宝になる見通しになった。中世の村の自治組織「惣村(そうそん)」の姿が記録された貴重な資料だ。住民たちは「高齢化の進む集落が元気になるきっかけになれば」と期待を寄せる。
庶民記した文書の国宝指定は初
新たに国宝に指定される「菅浦文書」は、大正時代に「開けずの箱」から見つかったとされ、琵琶湖岸の菅浦の集落にある須賀(すが)神社の所蔵品として大切に守られてきた。1954年からは、滋賀大学経済学部付属史料館(滋賀県彦根市)に預けられ、歴史の研究などに活用されている。
長浜市教委によれば、文書は鎌倉~江戸時代の計1281通、65冊からなり、中世の村の具体的な暮らしぶりを知ることができる。室町時代の村の規則や、隣村の大浦との田んぼをめぐる争いの記録などが含まれている。
文書とともに、「菅浦与大浦下庄堺絵図」も新たに国宝に指定される。絵図は、菅浦と隣の大浦(現在の長浜市西浅井町大浦周辺)との間で起きた田地をめぐる境界争いが起きたときに描かれたと伝わり、中世の庄園(しょうえん)絵図の代表例とされる。
これまでに国宝に指定された文書は武家や寺社が記したものだったが、庶民が記した文書が国宝に指定されるのは初めてだ。
先人の知恵引き継ぐ
「ヨイサ、ヨイサ」
4月8日、琵琶湖の最北部・葛籠尾崎(つづらおざき)に抱かれた菅浦の集落に威勢のいい声が響いた。住民たちが担ぐみこしが、家々の間を進む。
毎年4月初めに行われる須賀神社の春祭りは、菅浦が最もにぎやかになる一日だ。
住民たちが「すが」と呼ぶ地域は、古代から湖上交通の拠点として栄えてきた。奈良時代に成立した「万葉集」にも登場する。
琵琶湖を望む急な参道の先に立つ須賀神社には奈良時代、戦乱のために都を追われた淳仁(じゅんにん)天皇(在位758~764)らがまつられる。本殿へと続く石段の前で靴を脱ぎ、参拝するのが決まりだ。
みこしは、湖岸の道を通って集落東端に立つ「四足門(しそくもん)」へと向かう。集落は東西のかやぶきの門に挟まれた約750メートルの範囲にあり、室町時代の「惣村」の面影を今に伝える。随筆家の白洲正子(しらすまさこ)らに愛され、2014年に国の重要文化的景観にも選ばれた。
前方に湖、背後に山が迫り、村の周囲には田んぼや畑などの耕地が乏しかった。村人たちは湖上を船で渡り、あるいは、山を越え、大浦の集落の近くの日指(ひさし)・諸河(もろかわ)という約16ヘクタールの田んぼを耕して生計を立ててきた。
都を追われた淳仁天皇は、淡路(兵庫県)ではなく、淡海(近江)のこの地に流されていた。中世には大浦の集落と日指・諸河の田を巡って長い間、争いがあった……。惣村の流れをくむ菅浦の住民は歴史を語り継ぎながら、力を合わせて暮らしてきた。自治会長や氏子総代らを投票で選び、寄り合いを開いて事を運ぶ伝統は変わらない。
須賀神社の祭りなどの神事も住民の手で行われる。東西の組が毎年交代で当番を務め、その組の9人が「神主」として、氏子総代らとともに神事を担う。神主は3人ひと組で、4カ月ごとに交代。本殿などの鍵の管理や毎月1日のお参りなどが務めで、普段は菅浦を離れている人も多くが帰省して役目を果たす。
集落を一巡したみこしが神社に戻る。五穀豊穣(ほうじょう)などを祈りながら、神主がみこしの前で大人の背丈ほどの御幣(ごへい、神に供える飾り)を回す「幣祭(へまつ)り」、地面に倒した御幣を奪い合い、かけ声とともに地面にたたきつける「幣倒(へたお)し」の後、みこしは再び人々に担がれ、神社の参道を駆け上がった。
菅浦でも過疎化と高齢化が進み、住民はお年寄りを中心に約60世帯。春祭りでも須賀神社の3基のみこしのうち、今年、集落を巡ったみこしは1基だけだった。
文書の国宝指定は、住民たちにとって地域の歴史を振り返り、地域に誇りを持つきっかけになった。滋賀県草津市から帰省し、須賀神社の「神主」を務めた前田雅文さん(55)は「ご先祖が書いたものが国宝になるとは、本当に誇らしい」。自治会長の前田浩一さん(56)は「文書には先人の知恵が詰まっている。国宝指定の喜びとともに、今後も引き継いでいくという重責を感じる」と話した。(八百板一平)
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〈惣村〉 中世農民の自治的な共同組織。鎌倉時代後期に近畿やその周辺部では、それまでの荘園などの内部で農民たちがみずから自立的・自治的な村をつくる動きがみられ、南北朝の動乱の中で各地に広がった。古くからの有力農民だった名主層に加え、新しく成長してきた小農民も構成員となった。神社の祭礼や農業の共同作業、戦乱に対する自衛などを通じて村民の結合も強まった。