浦和西高時代の西野朗監督
直前の監督交代、国際親善試合での連敗。そんな逆境で臨んだサッカー・ワールドカップ(W杯)ロシア大会で、西野朗監督(63)が日本を決勝トーナメントに導いた。その戦いぶりを、現役時代を知る人たちが見つめる。日本史上初のベスト8入りをかけたベルギー戦。西野監督は言った。「勝機がピッチのどこかに落ちている。それを全員で拾いにいく」
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1次リーグのポーランド戦で、西野監督は終盤、最後の交代選手として長谷部誠(34)を送り出した。
1970年代に代表監督を務めた二宮寛さん(81)は「長谷部に、自分と同じ雰囲気を感じているのだろうな」と思った。当時早大生だった西野監督の「空間察知能力」にひかれ、代表に抜擢(ばってき)した二宮さん。「ピンチやチャンスの芽を瞬時に察知できるセンスの良さがあった」。ベンチの考えを西野監督がピッチ全体に伝えていたと思える試合が何度もある。「私にとっての西野が、西野には長谷部なのでしょう」
加えて、人をひきつける力があった。「口べたで、面白い話をするわけでもないのに、輪の中にいた。いまの選手たちが試合後、いい表情をしているのもよくわかる」と話す。1次リーグのセネガル戦の前、対策を聞かれた西野監督は、日本選手について「5キロ増量させ、身長を5センチ伸ばす調整には失敗した」と冗談を交えながら「軽い体と頭で考え、ボールを動かしていきたい」。引き分けで貴重な勝ち点1を得た。
現役時代のポジションは攻撃的MF。中学生のころから、74年W杯でオランダを準優勝に導いたヨハン・クライフに憧れた。浦和西高(埼玉県)ではクライフと同じ、背番号「14」。高校選手権大会8強入りすると、長身、端正な顔立ちで全国的な人気になった。
当時、サッカー部の2年後輩だった会社員の高野薫さん(60)は、全国からファンレターやチョコレートなどが連日、山のように届いたのを覚えている。高野さんが同級生と仕分け係を務めた。高野さんが1人で朝練をしていると、一対一の練習に付き合ってくれた。「超高校級の選手と言われたが、後輩にも気さくに接してくれる人だった」
浦和西高時代に監督として指導した仲西俊策さん(82)は「昔から冷静な人間だった」と振り返る。高校時代から「勝利にこだわるサッカー」を教えていたという。85年には日本リーグで8試合連続ゴールの日本記録に並んだ。10年指揮を執ったガンバ大阪を、90分間攻めきるサッカーで常勝軍団に高めるなど、J1では歴代最多の270勝を重ねた。
ロシア大会まで約2カ月というタイミングで就任し、親善試合のガーナ、スイスに連敗。得点力不足を指摘されながらのW杯だったが、セネガル戦では途中起用した本田圭佑(32)が同点ゴール。ポーランド戦の終盤は、賛否の議論を巻き起こす戦術で16強をたぐり寄せた。
「勝負好き」な一面を知るのは、早大時代の先輩、今井敏明さん(63)。「はまっていたわけではないが、パチンコやマージャンもしていた。勝負は好きなんだな、と思った」。西野監督が率い、ブラジルに勝って「マイアミの奇跡」と呼ばれた96年アトランタ五輪は、2勝するも決勝トーナメントに進めなかった。1次リーグの戦いに「代表監督は結果が全て。調子のいい選手を見極め、最高のやり方を選んだ」とたたえた。(勝見壮史、笠原真、山本亮介)