説法のカセットテープ、信者のヘルメット、ガスマスク、松本智津夫元死刑囚が表紙の本――。ほこりをかぶり、色落ちする資料もある。保存も処分もできず、行き場を失ったように置かれていた。
オウム真理教の資料は、教団の拠点があった山梨県の旧上九一色村(現・富士河口湖町)に残されていた。平成7年(1995年)3月に教団への強制捜査が行われ、20年ほど前に地元住民たちが教団の破産管財人から譲り受けたものだ。
段ボールの中には、「オウム真理教監視日誌」もある。住民たちが24時間態勢で第2、3、5サティアンがあった「第一上九」の人や車の出入りなどを記録した。「ドラムカン17本積み込む」「数分間 白煙が出る」など生々しいメモが残されている。
地元の元オウム真理教対策副委員長だった竹内精一さん(90)は「恐怖は、みんなにあった。私自身もあった。ただ、恐怖の観念をなくさない限り、闘いはできなかった」と当時を振り返った。
98年12月14日に教団の関連施設で唯一残っていたサリン製造の第7サティアンが、完全解体された。それから20年、現地で当時を伝えるものは第2サティアンなどの跡地に整備された富士ケ嶺公園の慰霊碑だけ。ただ、住民の感情を考慮して「オウム」の文字はない。
地元のオウム真理教対策委員長を務めた江川透さん(82)は「本当にあった話として、ここに教団がいたという事実を後世に残し、伝えていくべきだ。また起きてはならない」と話した。今後、資料については地元住民で集まって話し合い、役場の出張所などでの保管を検討するという。(長島一浩)