日系ブラジル人3世の少年は、日本に移住した時、ポルトガル語しか話せなかった。40歳の今、行政書士として外国人を支える。共に生きるとは、つながること、そして、顔と名前を知ることだ、と言う。少年時代に手をさしのべてくれた岐阜県のある町の住人たちを思い浮かべながら。
1991年。渡辺マルセロさん(40)は、ブラジル・リオデジャネイロから岐阜県美濃加茂市へ移ってきた。前年に改正出入国管理法が施行され、日系2世、3世に日本での就労の道が開かれた。多くの日系人が来日し、先に日本へ渡った父もその一人だった。
マルセロさんが来日した時は13歳。日本語は話せなかった。学年を下げて小学6年に編入された。
「私は学校や地域に助けられました」と言う。
間もなく、近隣住人が渡辺さん一家に世話を焼いてくれるようになった。向かいの家に住み、同じ小学校に通う児童の母親は漢字を教えてくれた。ごみの出し方といった生活ルールを教えてくれた人もいれば、自宅に来て「うどん作り」を伝授してくれた人もいた。
中学校の担任は黒板に書くとき、ふりがなをふった。同級生も分け隔てなく接し、昼休み時間はクラス全員でサッカーボールを追いかけた。
「よそ者という感じがしなかった。国が変わってもここは僕のまち、自分の居場所だと思えた」
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岐阜大を卒業し、通訳として美濃加茂市役所に勤めた。病院の事務職に転職し、もっと日本の法律や制度を知りたいと2年ほどで行政書士の資格を取った。
2009年の退職後は、リーマ…