山口県高校野球連盟で最年長の審判、掛川照夫さん(89)=柳井市=は50年以上、グラウンドから球児を見守ってきた。今夏の第101回高校野球選手権山口大会ではグラウンドには出ないが、審判への助言役である「控え審判」として球児を支えるつもりだ。
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掛川さんが本格的に野球を始めたのは、柳井商工に在学していた1946年。戦時中は「野球なんかしている場合ではなかった」。自身も学徒動員で、下松市の軍需工場に通っていた。
戦後、復活した野球部には野球道具がほとんどなく、一からそろえる必要があった。先輩や卒業生が集めた生地でユニホームをつくり、地下足袋をスパイク代わりにする選手もいた。食料事情も悪く、さつまいもの茎を食べて空腹をごまかし、練習に励んだ。
それでも、空襲におびえた日々を振り返ると、思い切り野球ができる喜びが大きかった。
46年に戦後初めて開かれた夏の大会「第28回中等学校優勝野球大会」の山口予選では、1回戦の徳山戦に三塁手として出場し、1―19で5回コールド負け。翌年、1回戦の岩国工戦に捕手として出場したが、3―5で敗れ、高校野球を終えた。
卒業後は化学メーカーに勤務しながら野球を続けていたが、肋膜(ろくまく)を患い、医師からプレーを禁じられた。それでも野球への思いは強く、高校野球の練習試合に頻繁に顔を出していた。顔見知りになった野球部長に声をかけられ、63年に高校野球の審判に。以来56年間、球児を支えてきた。
広島カープで投手として活躍した津田恒実さんが南陽工の選手だった時、球審として試合に立ち会った。「フォームがきれいで、スピードもあった。いい選手が伸びていく様子を見られたのは思い出」と話す。
掛川さんは「審判は決して目立ってはいけない陰の役目」と話す。「心の中で応援しても、審判として冷静でいないといけないことに難しさを感じる」
高齢のため後輩に審判を譲ることも多くなったが、いまでも月に1、2回は自ら審判を務める。元気の秘訣(ひけつ)は「毎日1合のお酒と刺し身」と笑う。
今夏の山口大会でも、複雑なプレーの際にグラウンドにいる審判に助言する控え審判として、球場で待機する。「高校球児にとってかけがえのない3年間。人生のなかで大事な何かを得る手伝いができたら」(藤牧幸一)