93チームが出場する第101回全国高校野球選手権茨城大会が6日、開幕した。横浜DeNAベイスターズで活躍し、今年から古巣のJFE東日本(千葉市)に復帰した須田幸太投手(32)は、土浦湖北高の4番でエースとして、茨城から甲子園を目指した球児の1人だ。高校野球の思い出や、茨城の球児たちへのメッセージを聞いた。
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――どうして野球を始めたのですか。
小学1年生の時、地元のクラブチームの監督をやっている親戚に誘われたんです。最初はフライは捕れないし、バットにボールは当たらないし、「こんなの何が面白いんだろう」と思っていました。
小3の時に父がチームのコーチになり、平日は毎日3キロのランニングや腕立て・腹筋・背筋100回、新聞紙を丸めたボールでトスバッティング100本。しんどかったけれど、今思うとあの練習がプロになれた原動力だったと思います。
――土浦湖北高に進学します。
中学では野球部だったけど、高校から声はかかりませんでした。土浦湖北を選んだのは、当時は県内ベスト8、16の常連校で、家からも通いやすかったから。受かってなければ野球部のない高校に行ってたと思います。受験勉強がんばってよかった(笑)。
――1年の夏に139キロを出し主力選手として活躍。甲子園を意識していましたか。
入学した頃は「夢のまた夢」と思ってました。でも、3年生たちが本気で甲子園を目指して練習する姿を見て、変わった。「1年生の自分が先輩たちの夢を壊しちゃいけない」と初めて真剣に野球と向き合うようになりました。
――2004年に選抜に出場し、優勝した済美と初戦で対戦。0―9の大敗でした。
直前の練習試合で右ひじを痛め、痛み止めを打って出場しました。正直、甲子園のマウンドはあまり覚えていません。あっという間に終わってしまった。「もう一度あのマウンドに立ちたい」。そう思って最後の夏に挑みました。
――茨城大会は3回戦で敗れ、春夏連続出場はなりませんでした。
選抜に出たことで、どこか浮かれてしまった部分があった。心は「もう一度甲子園に」という思いで一杯だったけど、体の準備ができていなかった。当時の自分に声をかけるなら「もっと走れ」「もっと練習しろ」と言いたい。
――その悔しさが、大学でも野球を続けた理由ですか。
実は、野球を辞めることも考えました。早稲田大への進学が決まっていたので「どうせなら続けてみよう」と思った程度です。でも、それが良かった。
僕は身長も体格も平均的で、経歴もエリートでは決してない。だから、最初から「やってやるぞ」と気負っていたら、どこかでつまずいた時に心が折れていたと思う。「俺なんかが」といつも思っていたからこそ、ここまで野球を続けて来られた。
――JFE東日本でエースに。
何かを変えたり、特別なことをしたりした訳ではないんです。監督が「1年目から使う。エースになってくれ」と期待してくれた。そして、全国の舞台で結果を出せたことで自信がつき、プロを明確に意識するようになりました。
――ドラフト1位でプロ入りし、主に中継ぎとして活躍。ピンチの場面で抑えることが多かった。
最初からピンチに強い選手なんていません。乗り越えることで強くなっていく。一番大切なのはブルペンでしっかり準備をすること、そして平常心でいることです。
――最後に、球児たちへメッセージをお願いします。
僕は最後の夏は不完全燃焼で、今も後悔はあります。練習以上の力は、試合では出せません。だからこそ、皆さんには最後までしっかり準備をしてほしい。そして、緊張もプレッシャーも力に変えて楽しんでほしいです。
勝って終われるのは1校だけですが、最後まで諦めず楽しめれば、きっと、悔いの無い夏になると思います。僕も悲願の都市対抗野球優勝に向けてがんばります!(聞き手・佐々木凌)
すだ・こうた 1986年、石岡市出身。土浦湖北高のエースで4番として、同校を初の選抜大会出場に導く。早稲田大、JFE東日本を経て、2010年秋のドラフト1位で横浜(現DeNA)に入団。16年には中継ぎとしてチーム最多の62試合に登板し、チーム史上初のクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献した。今年、JFE東日本に復帰し、13日に開幕する都市対抗野球大会に出場する。176センチ、76キロ。右投げ右打ち。