女性で初めて日本美術院の同人となり、おおらかな構成とさわやかな画風で人物や静物を描いた小倉遊亀(ゆき)(1895~2000)。70年あまりの画業を中心に、院展の名作を紹介する「小倉遊亀と院展の画家たち」展が、松江市の島根県立美術館で開かれている。男性中心の画壇に飛び込んだ女性画家の先駆者は、「遅れる牛」に自らを重ねたという。
日本美術院は1898年、東京美術学校の校長職を追われた岡倉天心が中心となり東京・谷中に創設。茨城・五浦への移転や天心の死を経て再興した大正期の院展では、西洋絵画や中国絵画、日本の洋画の要素も取り入れながら新たな日本画の表現が盛んに生み出された。
そんな自由闊達(かったつ)な作品群に憧れたのが、大津出身で教師として働きながら独学で絵を描いていた遊亀だ。
1920年、横山大観、下村観山らに続く院展中堅世代として活躍していた安田靫彦(ゆきひこ)に弟子入り。靫彦の指導のもと初めて院展に出品した「童女入浴」は落選したものの翌26年に初入選し、画壇デビューを果たす。
横浜のミッションスクールで生徒をモデルに「受洗を謳(うた)う」を描くなどしばらくは教職と二足のわらじをはいていたが、43歳の時に30歳年上の禅の修行者・鉄樹(てつじゅ)と結婚。翌39年以降は本格的に画家としての活動を始める。
遊亀は身近でくつろいだ雰囲気…