■私の視点 ノンフィクション作家・保阪正康さん
太平洋戦争終結から71年、戦後生まれが8割を超えた今、戦場体験の継承はこの社会の重要な柱である。とくに直接に戦場で命の奪い合いを行った元兵士の証言は戦争の本質を示しているだけに貴重である。
戦場で逝った元兵士の年代別分布は不明だ。ただ、私が40年近く、千人を超える軍人、兵士に話を聞いてきた経験に基づくと、1922年、23年生まれの戦死者が多いようだ。
この年代は開戦前後に徴兵検査、そして学徒兵として徴用された。戦場では生者と死者は紙一重だけに、生者の懊悩(おうのう)は深い。22年生まれの国民的漫画家、水木しげるさんを例にとれば、自らの左腕を失った戦場体験を踏まえて「総員玉砕せよ!」をはじめ多くの作品を残した。この書のあとがきで「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と告白する。水木さんの長女、原口尚子さんによると、午睡の後に「ここはラバウルか」とつぶやくことがあったという。
戦場体験者は簡単に正論を口にせず、人倫なき極限の世界を語る。生者の側に立った水木さんや「戦艦大和ノ最期」の吉田満らは、同年代で戦死した若者らの思いも、一期を通じて伝え続けた。死者となった仲間につき動かされた表現者と言える。
22、23年生まれの生者の話を聞いていると、政治・思想に関わりなく「天皇」という語に複雑な思いをもっているとわかる。兵士としてこの語のもとで、理不尽な命令を強いられたからだ。天皇が大元帥として存在した戦前の日本と、人間天皇として平和を希求した戦後の日本と。二つの日本を生きた水木さんの目に、戦没者追悼と慰霊を続ける現天皇はどのように映っていただろうか。
本紙2月6日付朝刊で、私は、昨年2月に水木さんが天皇陛下からの伝言を受けたものの陛下にお会いすることを渋り、「緊張するし、恐れ多くて」と拒んだかのように話した。だが、伝言を受けたのは別の方で、私の思い違いであった。「面会を避けたのだろう」との推測とともに取り消し、水木さんとご遺族にお詫(わ)びの意を明らかにしておきたい。
2011年の園遊会で陛下は水木さんに「戦争の痕は大丈夫ですか」と労(ねぎら)った。昨年来のパラオやフィリピンへの慰霊の旅にも感じたが、その誠実さ、真摯(しんし)さは、戦場体験者の思いを背負ったものに思える。もし陛下と水木さんがじっくり話をしていたらどんな内容になっただろう。
あの戦争とは何だったのか。戦場体験者の記憶は、国民的遺産であり、この記憶の継承は次代の者の務めであるとの覚悟を新たにしたい。