ウオッチェ環礁で現地の人や日本人の若者と一緒に父冨五郎さんの慰霊祭を行った佐藤勉さん(左から2人目)=勉さん提供
敗戦が迫る1945年4月。太平洋戦争の戦地・マーシャル諸島で、1人の日本兵が絶命した。死の前日まで手帳とノートに日記をつけていた。71年後の今春、息子は日記に導かれるように、父が眠る地を訪れた。終戦の日の15日、自宅近くの墓に参り、父と語った。月命日の26日にも墓前で「早く遺骨を収集しますね」と改めて誓うつもりだ。
■手帳には遺書のような記述も
孝子、信子、勉、赤チャンモ。父親ニ盡(つく)ス親孝行ハ皆ンナデ母親ニ孝行ヲツクシテ下サイ。父ノ分マデモソシテ家内仲良ク兄、弟、姉、妹、仲良ク クラシテ下サイ。元気デ ホガラカニ オイシイモノデモタベテクラシテ下サイ
日記をつづった手帳には妻子に宛てた遺書のような記述もあった。海軍一等兵曹の佐藤冨五郎(とみごろう)さん(享年39)。東京市電気局(現・東京都交通局)のバス運転手で、43年春に出征した。
海軍第64警備隊に所属し、43年8月1日、当時日本の委任統治領だったマーシャル諸島のウオッチェ環礁に着いた。真っ青な海と空に囲まれた島で、食糧の増産に従事する中、米軍の攻撃にさらされ続けた。
「爆撃有リ」「空襲有リ」「空爆有リ」
日記にはこんな記述が続く。米軍の上陸は防いだが補給は途絶え、食糧事情が悪化。餓死者が続出した。
44年10月には「農園作業本腰」。コーリャンやカボチャ、トウモロコシなどを栽培した。次のような小隊長訓示も書き留められる。
「本島三千五百人ハ既ニ二千七百名滅ス」「ガシスルノデ 農園作業開始」「不平不満ノモノ銃殺。見込(みこみ)ナキ病人モ自ケツ」
そして45年3月5日。
「昨日カラ急ニ体ガ弱ッタ。気ハシッカリシテ居ルガ足キカズ、モウ死ノ一歩前ト思フ」
床に伏せる佐藤さんにはわずかな食べ物も配られず、45年4月25日、日記はこんな記述で途絶えた。