「苦しみから得た明るさを伝えたい」。民族衣装も、いつも明るい色の物を着るという=12日、長崎市文教町
1994年に大虐殺が起きたルワンダの内戦を生き抜いた女性が、その体験を全国で語っている。今月12、13日には長崎市で講演した。壊された穏やかな日常や夢――。ともに悲劇を体験した広島、長崎とルワンダを重ね合わせる。
94年4月6日。永遠瑠(とわり)マリールイズさん(51)=福島市=にとって、その日は希望に満ちた日だった。ルワンダの首都キガリ。2カ月前まで研修で滞在していた日本で学んだ洋裁の技術を生かし、洋裁学校の子どもたちと作った服を市場で売った。服は人気を集め、「これから自立に向けた取り組みが始まる」と期待した。一日を終え、同僚のジャンヌさんに「また明日ね」と声をかけ、別れた。
「その明日は来ませんでした」。今月12日、マリールイズさんは長崎大の学生らを前に、静かに語った。
94年のその日夜、大統領の乗った飛行機が撃墜され、暗殺されたことをきっかけに、多数派民族による虐殺が始まった。3カ月で数十万人から100万人にも上る人が殺害されたという。マリールイズさんは、ハンドバッグを手に3人の幼い子を連れて逃げ、難民となった。
難民生活に光をもたらしたのは、ホームステイをした福島でおばあちゃんに教わった平仮名だ。日本に滞在していたときの知人に助けを求めるため、手紙を書いた。「いきています。たすけてください」。支援に入っていた日本人医師が偶然、マリールイズさんが手にしていた手紙を見て、通訳の仕事を頼んできた。その年の12月、日本の知人らの支援で、留学生として日本に家族と移り住むことができた。やっと安心して眠ることができた。
「平和は宝物ですよ。普通じゃないです。感謝して毎日を過ごしてほしい」。講演で、目の前の若者たちにそう語りかけた。
再来日後は福島市で暮らす。2000年にルワンダの教育を考える会を立ち上げ、ルワンダに学校を建て、各地で体験や教育の大切さなどを語る。13年には日本国籍を取得した。
被爆地の広島・長崎には特別な思いがある。
中学1年の時、世界史の授業で原爆投下を学んだ。多くの子どもたちが亡くなったと聞き、涙した。「戦争は恐ろしい」と心に刻んだ。その時は「まさか自分が戦争を体験するとは、夢にも思わなかった」。
10年ほど前から広島をたびたび訪れ、被爆者と交流する。長崎には2年前に初めて訪れ、原爆資料館を見学した。原爆と内戦。「形は違うけど、今までの生活が一気に消えるのは一緒。夢も希望も一気にストップ。そこから苦しみ始めるのも一緒。戦争は絶対に、絶対にあってはならない」。取材にそう語った。
あの日、別れたジャンヌさんも日本に行く夢を持っていた。毎日一緒に通勤し、その間はずっと日本の話をしていた。だが、内戦で殺害されたという。
14年には日本の青年海外協力隊員とルワンダで「原爆復興展」を開いた。8月15日前後には毎年、現地でピースコンサートを開き、日本とルワンダの過去を振り返り、平和について考える日としている。亡くなった人を思い、自分にできる活動を続けることが、生き抜いた自分の役割だと思っている。(岡田将平)
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〈ルワンダ〉 アフリカ中部、赤道のやや南側にある内陸国。面積は約2万6千平方キロメートル、人口は1200万人ほど。1994年に約100日間続いた大虐殺後は民族融和が進み、「アフリカの奇跡」と称される経済成長を遂げた。女性の国会議員が半数以上を占める。コーヒーが名産。
■今月、各地で講演
マリールイズさんは今月、各地で講演する。スケジュールは次の通り。27日=宮城県岩沼市▽28日=京都市▽29日=京都府京田辺市▽31日=青森県八戸市。11月も各地で講演する。問い合わせはルワンダの教育を考える会(024・563・6334)へ。