1960年代、チェ・ゲバラ(左)と話すフィデル・カストロ氏=AFP時事
1959年1月、バチスタ政権を倒し、仲間とともにキューバの首都ハバナに入り、車上から手を振るフィデル・カストロ氏=AFP時事
訪日して村山富市首相と握手をするカストロ氏=1995年
1996年11月、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(右)とバチカンで会見したカストロ氏=AFP時事
2003年、広島の平和記念資料館を訪れ、畑口実館長(左端)から原爆投下について説明を受けるキューバのカストロ国家評議会議長(当時)
キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長の歩みを、語録で振り返った。
特集:フィデル・カストロ氏死去
●「わたしを断罪せよ、それは問題ではない。歴史はわたしに無罪を宣告するであろう」(1953年10月、モンカダ兵営襲撃に失敗し、裁判を受けた際の弁論)
●「全世界はアメリカのような国がキューバに対して罪悪的な、残虐な、卑劣な侵略をおこなうことを絶対に許しはしません。たとえ彼らが原子爆弾をもって襲いかかってこようとも、我々はあくまでも抵抗します」(1961年4月、米国が支援した反革命部隊によるピッグス湾侵攻事件の後のテレビ演説)
●「革命的な人民は、彼らの鎖と貧困以外何も失うものはなく、しかも他方では彼らには勝ちとるべき世界があるからであります。帝国主義者となれば話はちがいます。米国の百万長者の場合にはそうはいきません。彼らはたくさんのものを失うのであります」(1964年5月、メーデーの演説)
●「かつてキューバはソ連のやり方をまねしたと言って批判された。いまはソ連の行き方を踏襲しないといって批判される」(1990年3月、旧ソ連の共産党一党独裁放棄について記者団に)
●「(進退について)革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。わたしは地獄に落ち、そこでマルクスやエンゲルス、レーニンと出会うだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を待ち続けた苦痛に比べれば何でもない」(1994年10月、仏大衆誌のインタビューで)
●「(米国の経済制裁に)これまで35年間耐えてきたのだから、今後100年でも耐えられる。(キューバから)正常化を求めることは、今も、これからもない。(日本は)米国の良き友人として、カリブの小国との関係を改善するよう助言できるだろう」(1995年12月、訪日時の記者会見)
●「私も洗礼を受けている。母も祖母も敬虔(けいけん)な信者だった。私は信仰心のあつい人々には敬意を払う。キリストの教えと社会主義や共産主義の思想とは似ている面がある」(1996年11月、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世との会見後)
●「人類は広島の教訓を十分学び取っておらず、世界はまだ危険のふちにいる。たくさんの人々が広島を訪れなくてはいけない」「(キューバ危機を振り返って)私たちは国全部が滅びるのではないかと思った」(2003年3月、広島の平和記念資料館を訪問。芳名録には「このような野蛮な行為を決して犯すことのないように」と記した)
●「私がここで話すのはおそらく最後だ。だが、キューバ共産党の思想は残る」(2016年4月、キューバ共産党党大会の閉会式で「お別れ演説」)
※「カストロ演説集」(新日本出版社)や当時の新聞記事から