2001年、トルシエ日本代表監督と話す岡野さん=ロイター
日本サッカー協会会長などを務め、2日に85歳で亡くなった岡野俊一郎さんは、出身のサッカーだけではなく、スポーツ界全体にもたずさわった。多方面からその死を悼む声が寄せられた。
日本サッカー男子が五輪で唯一、銅メダルを獲得したのが1968年メキシコ五輪。岡野さんはコーチとしてチームを支えた。エースストライカーだった釜本邦茂さんは「当時のメンバーで昨年5月に集まった時は元気だった。まだ早い」とため息をついた。釜本さんにとって、16歳の時から常に教えを請う存在だったという。「30歳の頃、シュートがどうしても入らなくなった。『踏み込むステップを小さくしろ』とアドバイスをもらったのが印象に残っている」と振り返る。
岡野さんが日本サッカー協会長として迎えた2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会は日本サッカー界のハイライトだ。当時の日本代表監督のフィリップ・トルシエさんは「岡野さんは私を『息子』と呼んでくれていた。私も岡野さんを『僕のお父さん』と呼んでいた」と明かす。「地元開催のW杯という重圧を一緒に戦い抜き、初の決勝トーナメント進出を成し遂げたとき、岡野さんが喜ぶ顔を見られたことが一番の思い出だ」と懐かしんだ。日本サッカー協会の田嶋幸三会長は昨年11月、岡野さんから入院先の病院に来てほしいと連絡があり、病室で1時間ほど話した。「過去から未来へ、サッカーのみならずスポーツ界の話を聞かせていただいた。自分の死期を感じて、誰かに託さなければという思いがあったと思う」
77年から日本オリンピック委員会(JOC)で総務主事を務め、国際オリンピック委員会(IOC)委員としてもスポーツ界全体にも貢献した。ともにIOC委員として活躍した猪谷千春さんは「IOCの中で『シュン』の愛称で慕われ、サマランチ会長(当時)とも親交が深かった。全ての競技に造詣(ぞうけい)が深く、スポーツ界への貢献の大きい方。2020年東京五輪の招致でもともに働いた仲だったので、それまで生きて欲しかった」と同世代の仲間の死を惜しんだ。