母の入院中、枕元で流したヒーリング音楽のCD
■認知症の母を見つめて:5(マンスリーコラム)
2012年8月、私の母(当時73)は横浜のグループホームで突然倒れ、救急車で運ばれた。原因は、吐いた食べ物を気管につまらせたことによる窒息。家族が慌てて病院のICUに駆けつけると、ベッドに横たわり、口には人工呼吸器、体にはいろんなケーブルやチューブをつながれ、昏睡(こんすい)する母の姿があった。
電話で伝えた誕生日祝い 2週間後、母は突然意識不明に
ホームで取り戻した穏やかな笑顔 冬の夜、母は外へ
消しゴム食べ、一人で高速道路へ 母は「私が悪いんだ」
トイレとポットにお百度参りする母 「やめたくても…」
マンスリーコラム
幸い救急車の到着が早く、搬送もスムーズだったことと、同乗していた救命医が搬送中に強心剤を投与したこともあり、母は病院到着後すぐに心拍を取り戻した。
■母に音楽を聴かせて
8月はひどく暑かったが、家族は毎日のようにICUに集まった。低体温療法のピーク時、母の体温は34度前後に保たれ、顔が青白く冷たい。人工呼吸器の空気音に合わせて動く胸と心拍を知らせるパルス音でしか、母の命を感じることができない。
「一度心肺停止になった場合は、今すぐ何かあってもおかしくありません。ここを生きて出られる保証はないです」
母を救命した循環器科の医師の言葉に、心が凍りそうになる。母との別れは近いのか。今日か明日か。今すぐ目の前で、ふっと旅立ってしまうかもしれない。
私は、毎日夕方5時に仕事を終え、電車で東京から横浜の病院に通った。当時は育休明けで時短勤務にしていたため、通常より早く退社できたのが不幸中の幸いだった。時間内に終わらない仕事は、先輩が快く引き受けてくれた。
子どもを保育園に迎えに行くことや晩ご飯作りは全て夫に頼んだ。夫も不満一つ言わず引き受けてくれた。周りの助けがなければ病院には行けない。本当にありがたかった。
私は、病室に行くたびに母の耳元で話しかけたり、医師の許可をもらって手足をマッサージしたり、ラジカセを持ち込み母の好きなギターの曲や鈴木雅之の曲を流したりした。「人間の聴覚は最後まで残る」という話をどこかで聞いたことがあったからだ。妹と2人で母のお気に入りの童謡も歌った。
妹は「お姉ちゃん、なんでそんなに一生懸命なの? 今までお母さんのこと無関心だったのに、なんで急に変わったの? そういうことは、お母さんが元気な頃にやってほしかったよ」。
本当にそうだ。こうやって毎日毎日、仕事帰りに母のもとに通うことだって、やる気になればできたんだ。
■神聖なひととき
低体温療法を完全に終えるまで、5日ほどかかっただろうか。温度をじわじわ下げた後は、同じぐらいの日数をかけてじわじわ戻していく。張り詰めた日々だったので1カ月ぐらいに感じた。
しかし、母の意識は戻らなかっ…